ニュースレターNo.108

喜び、祈り、感謝する
コルネリオ会会員 圓林栄喜

はじめに
御名を賛美いたします。平成15年3月から平成1
7年3月の2年間、中隊長を拝命し、充実した日々を
送ることができました。今回は、中隊長時代に体験し、
感じたことについて述べてみたいと思います。
喜ぶクリスチャン
私のいた部隊では、幹部で私を含め3名のクリスチ
ャンがいました。2名ともカトリックの方でしたが、
個性的で非常に人間味のある方々でした。一人の方は、
趣味がギターで、作詞作曲もされ、部隊の隊歌も作ら
れるという才能の持ち主でした。誰とでも気さくに話
され、憎めない性格と常に冗談を言われる明るい性格
は本当に神から与えられた賜物であると思わされまし
た。
もう一人の方も非常に明るく、よく話される方でし
たが、親分肌の自分の信念を曲げない、思ったことは
ずばずば発言される方でした。まわりの評価はそれぞ
れ違いましたが、私は良く相談にのってもらいました。
厳しさと優しさを兼ね備えた方で、私にはないものを
持っておられる方でしたので、いまでも尊敬している
方の一人です。
クリスチャンはややもすると品行方正、真面目でと
っつきにくい印象を与えるものなのですが、この方々
については、逆にこれまでのクリスチャンというイメ
ージからはかなりかけ離れた存在として写りました。
クリスチャンとは罪許された罪人でしかなく、自分の
不十分なところを覆い隠すのではなく、自然体で歩め
る人々なのではないだろうかと思わせられました。特
れている人は、信仰者として、本当に恵みだなと思い
ました。
祈りの必要性
クリスチャンとして、中隊の隊員にできたことはこの
ことだけだったかもしれません。私が着任してから離
任するまで、ほぼ毎日、「中隊の隊員、家族をあらゆる
事故、怪我、病気、災い、悪しきものからお守りくだ
さい。」と祈りました。それでも、病気で休む隊員もい
れば、家族がなくなられる隊員もいました。問題が生
じることも多々ありました。「なんだ、祈りは答えられ
なかったんだ。」という感じる方もいると思います。し
かし、祈りをすることで、起こってくる出来事は「神
の許しなしには起こりえないのだ。」という思いが与え
られました。言い換えれば、「神は私の祈りを聞いてお
られる。それでもなお、起こることは神の計画であり、
きっと何かの理由があるのだ。」という思いです。その
ような中で、いま振り返って見ますと、それがかえっ
てよい結果を生み出すことにもつながっていることを
覚えます。まさしく「神のなさることは、すべて時に
かなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを
与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、
初めから終わりまで見きわめることができない。」
伝道者の書3:11のとおりだと思います。
昨年、父が急に亡くなりました。なぜ今父は亡くなっ
たのか?今でもわかりませんが、中隊長を終えて、今
こうして生まれ故郷で勤務できていること、母や祖父
母の喜ぶ顔を見ていますと、そのことも神の計画のう
ちにあったのだろうと思います。

感謝の思い
中隊長の間、言い続けてきたことがあります。「周囲
への感謝を忘れないように」ということでした。これ
は、私が幹部学校の教育部長から伺った言葉です。「君
たちが試験でここに来ているときにも、部隊は動いて
いるのだ。そのことに感謝しなさい。」といわれたこと
を覚えています。ややもすると、自分のことばかり考
えてしまう自分に対しての戒めの言葉でもあります。
確かに、昇任も、表彰されるのも本人の努力は当然な
のですが、その人を支えた先輩、同僚、後輩そして家
族がいることを忘れないようにということだろうと認
識しました。私自身も、本当に自分一人では何もでき
ませんが、中隊長として、自分のやりたいと思うこと
を中隊の隊員の皆さんにさせてもらったという感謝の
思いが残ります。思いどおりにならず、いらいらして
いたり、隊員に不満を持つときに限って、自分自身の
弱さを思い知らされたことが何回もありました。部隊
経験のほとんどない自分がよく2年間も中隊長がつと
まったものです。感謝の気持ちを忘れないように、こ
れからも心がけるつもりです。私の恩師は、いつも「あ
りがとう、ありがとう」と会うたびに言っておられま
したが、それも感謝の気持ちの表れなのだと思います。
最後に
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべて
の事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イ
エスにあって神があなたがたに望んでおられることで
す。」
Ⅰテサロニケ5:16~18
とありますが、これからも御言葉のような人生を歩ま
せていただきたいと思っています。兄弟姉妹の皆様の
尊い祈りにも支えられてきたことを感謝しています。
本当にありがとうございました。

日本は偶像国か
コルネリオ会名誉会長工学博士 今井健次

終戦と同時に大量に入って来たキリスト教の宣教師
に会い、彼らの知性と謙遜さに打たれて、キリスト教
を信じたいと思った。 しかし聖書にある人の子イエ
スを神の子と信ずる事に矛盾を感じ、その崇高な教え
と,聖霊による不思議なわざには感激を受けながらも
釈然としない時期があった。
しかし聖書に親しんでいる合間に「イザヤ書30章
20節―21節」のみことばが常に私を励まし助けて
下さった。そしてくり返しみことばを学ぶ時 「エペ
ソ6:10」「主にあって」と言うみことばに突き当た
った時、主を信じてクリスチャンになった。
私は戦争中飛行部隊にいたので地球の外の事も少しは
知っている、しかし「マタイ。6:29」に野の花の事が
書いてあるが、これが不思議でならない。よく見ると
花びらでも葉でも一枚一枚皆違って実に良くできてい
る。工場で作られる部品なら、何百出てきても驚かな
いのに、自然は何が目的にこんな事をするのだろう.
と不思議に思った。
所でこの半世紀の間に世の中が変わった。半導体とデ
ジタル計算機のいわゆる集合天才と言われた方法で、
宇宙は隅々まで細かく調査され明らかになって来た。
そして地球の構造や宇宙の構造は、人間の調査によっ
てすら秩序だって真理としか言いようが無い。之は唯
一全能の神の御支配と言うほか無い。
聖書によれば神の預言はイエスキリストの時までで終
わり、以後預言者は出ない。そして終わりが来るとい
う。
全能の父なる神は先に御子イエスをこの世の最低の地
位までおつかわしになって我々人間の救いのためにお
苦しみになった。今は神により、天地を含むあらゆる
領域に於いて、神の一人子として、主にあって救われ
た我々を待って居られる。我が同胞の日本の諸兄姉.。
もしまだ偶像に捉えられていると思ったら、偶像を捨
てて、三位一体の神のもとに、ひれ伏そうではないか。
栄光が主にありますように。

戦争について考える(その3)
コルネリオ会 会員 足立順二郎

1.戦争についての考え方
それぞれの個人が抱く戦争についての考え方には大き
く分けて二つの部分があると考えている。
一つは感情的なあるいは感傷的な、あるいは宗教観に
基づくといったような主として「情」の部分である。
私はこれを「戦争観」という。
もう一つは、理詰めに戦争を考えて行く「理」の部分
である。私はこれを「戦争論」と名付ける。
戦争観と戦争論とは互いに影響しながら個人の戦争に
ついての考え方を形成している。

戦争観
私の戦争観は次のとおりである。
1.戦はやってはならない
好漢は去らしめられるのである。
愛する人々は分かたれるのである。
いたいけな幼子は苦しめられるのである。
寄る辺なき寡婦は涙にくれるのである。
繰り返しになるが、だから戦はやってはならないので
ある。
だがしかし、一見はなはだ矛盾しているようであるが、
敢えて一戦を辞せざる覚悟
と、その覚悟を実行に移す
ことのできる実力
と、その覚悟と実力を制御する知恵
と、三つながらを併せて持たないと、いくさを防ぎ民
族と国家を長からしめることは難しいと思うのである。
剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする日の
近からんことを祈りつつそう思うのである。(イザヤ
書2:4参照)
2.世に正義の戦はない
この人間の世界に正義はない。
我々のいう正義は、汚れた衣のようなものである。(新
共同訳聖書イザヤ書64:5参照)もっとも、「汚れた衣」
といっただけではピンと来ない。しかし、新共同訳聖
書にいう「正しい業もすべて汚れた衣」の「汚れた衣」
はジェイムズ王欽定訳によれば filthy rags である。
これには「経血で汚れたぼろ」という訳があるそうで
ある。この世に正しい人はいないのである。
義人はいない。一人もいないのである。(ローマ人への
手紙3:10参照)
この世に正義や義人がないならば、この世に義戦はな
い。
だが、戦争の当事者たちは皆「自分は正義の戦争をや
っている」という。皆正義の旗を掲げて戦う。そして
「勝てば官軍、敗ければ賊軍」である。この意味では
国が百あれば正義もまた百ある。
戦争論
私の戦争論はおおむね以下に述べるとおりである。
ほとんどすべてを孫子によっている。また、大東亜戦
争の従軍体験、海上自衛隊勤務経験にもよっている。
孫子に頼るには理由がある。何回も繰り返して読んだ
兵書は孫子だけだったというほかに、岡崎久彦氏が「孫
子に勝る兵書はない」とどこかで書いていたのを読ん
だからである。軍事体験と読書体験の両方からいって
本当にそう思うからである。
1.政府
個人が集まって行う殺し合いも戦争であろうが、ここ
では国と国との殺し合いを戦争と名付けて考えてみる。
国の定義もまたやっかいだが、孫子の時代から現代に
至るまで「国」といわれてきたものが国だと、妙な定
義にならないような説明を書いておく。政体とか国体
ということには無関係である。
国をとりまとめ取り仕切っているのは政府である。
戦争は政府がやるのである。
政府の長は、名前はともかく、総理大臣である。
ひとりでは国務全部をこなすことはできないから、内
閣に分掌大臣を置く。
最小限次の4人の大臣が必要となる。これもまた、名
前はともかくである。
国内の諸々のことを管掌する内務大臣。
国にかかわる費用のことまた税金のことを管掌する大
蔵大臣。
他の国とのつきあいのことを管掌する外務大臣。
国防のことを管掌する国防大臣。
戦争というものは国の政治の中で、かなりというか非
常にというか、大事な部分を占めている。クラウゼヴ
ィッツの言だったとおぼろげに覚えているが、「戦争
とは血を流す外交であり、外交とは血を流さない戦争
である」のだから、外務大臣と国防大臣の両者は戦争
ということについてしっかりした理解と考えを持って
いなければならない。その意味で、アメリカのパウエ
ル国務長官がベトナム戦争で実際に戦い湾岸戦争当時
統合参謀本部議長だったことは高く評価してよい。軍
人は戦争の場合、命令によって死地に赴かなければな
らないのだから、戦争を知った上で外務大臣になるこ
とは大変重要なことである。
また、孫子は冒頭で、「兵は国の大事」と言い切ってい
る。ここでいう「兵」とは戦争のことである。 ―次号に続く―

2005’JMCF(コルネリオ会)総会について

総会を毎年 6 月に行っていますが、今年は 8 月に
Interaction があり、これを何とか成功裏に終了させ
たいと思います。よって、それが終了した 9 月に総会
を持ち、新しい事業計画や役員改選などを
行いたいと思います。コルネリオ会会則第 10 条には、
毎年 1 回総会を開催する旨記載があり、日時について
は指定がありませんので、今年だけの例外としてお認
めいただければ、幸いです。
2005 東アジア軍人クリスチャン研修会の御案内
それぞれの国や国際的な軍人クリスチャンとして、
リーダーシップを発揮し、より良き軍人キリスト者に
なることを目的とした東アジア軍人クリスチャン研修
会が開催されます。なお、今回の大会の特徴は、各国
の教官によって教育構成されていることです。以下に
概要を掲載しますので、皆さん是非ご参加ください。
テーマ:恐れるな! (ヨハネ12:15, 1ヨハネ4:18)
時 期:2005年8月12日~17日
場 所:〒108-0074 東京都港区高輪4-7-6
高輪東武ホテル Tel 03-3447-0111
主 催:コルネリオ会(防衛関係キリスト者の会)
後 援:ACCTS, JMEA(日本自衛隊宣教会)
到達目標
① ACCTS やAMCF の概要について、各自説明できるよ
うになること。
② 誘導的な聖書学習を指導できること。
③ 対話型の祈りについてグループを指導できるよう
になること。
④ 聖書に立つクリスチャンとして、リーダーシップ
を吟味できること。(主に仕える者としてのリー
ダーシップ)
⑤ 各国の教官によって担当課目を教え・実施できる
こと。
参加者:モンゴル、台湾、韓国、日本
中隊長クラスの被教育者と教官を含み、日本
を除き、各国4名以下とします。
会議用語:英語・日本語
登録費用:250 ドル(25,000 円)…全期間の宿泊・食
事代含む。
申込み:今市宗雄宛(E-mail:dqnqk735@ybb.ne.jp)
に6月15日までに申し込んでください。
祈りの課題
1防大聖研のためにお祈りください。
2イラクに派遣されている自衛隊員の安全のためにお祈り
ください。
3コルネリオ会会員の信仰が守られ、それぞれの職場で主の
御名が崇められる働きができるようにお祈りください。
42005年のINTERACTION(軍人クリスチャンリーダー研修会)
日本開催と必要資金が得られるようにお祈りください。
5インド洋地震津波被害と海外災害に派遣される自衛官のた
めにお祈りください。
JMCF) コルネリオ会(
(防衛関係キリスト者の会)
コルネリオ会広報室
〒895-0041 薩摩川内市隈之城町215-4-2-24
圓林栄喜
電子メール:enrin@m9.dion.ne.jp
郵便振込口座00130-3-87577コルネリオ会
コルネリオ会ホームページ:
http://www.geocities.jp/samuel1/index.html

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