ニュースレターNo.111

燃える炭火を積む
コルネリオ会会計 長濱貴志

3月末は、定期異動の時期である。今回私自身、3
年間勤務した職場を離れ、新たな職場に異動となった。
以前の職場において「とげ」の様なチクリと気にな
る存在がいた。同僚の1人である。過去にも、その種
の人物には別の職場で遭遇していたので、またかとい
う思いであったが、今回は、平静心を失わせ、どうも
イライラさせるのである。理由は様々であるが、その
人物の特性や私自身との相性、職場環境といった要因
も影響していると思う。
具体的には次の様なものだ。
○ 人の些細な過ちや欠点を大げさにあげつらい、人前
にひけらかす。
○ 仕事の結果ばかりではなく、その実施要領について
も細部統制しようとする。
○ 自分の過ちは知らぬ振りをする。
○ クリスチャンや宗教といったアイデンテティーへ
の反発や警戒心を漂わせる。
クリスチャンとしての意識がやや強く、本当に謙遜に
なれないといった自分の側の課題もある。しかし、些
細な過ちを指摘され続けることには腹が立つ。
イエスによって救われ、「敵を愛しなさい」という戒
めを知らない人であれば、このような行動をとるのか
もしれないとも考えてしまう。
この人物の配置は、クリスチャン個人としてこのよ
うな人物にどの様に振る舞うべきかを考える機会とな
った。
この人物への対応は、現実的には、口論になったり、
周囲の前で自分の非を認めることになったりといった
ものであった。
心情的には、彼の過ち等に気づいたときには、そこ
につけ込んで彼と同じ手口で仕返しをしようという思
いにも駆られたりもした。しかし、そのような思いに
襲われるときに、仕返しは聖書の教えに反するとブレ
ーキがかかった。かといって、過ち等を何回か指摘さ
れて、イライラが続くのも精神衛生上良くない。その
出来事に余り囚われすぎないで、不自由から自分を開
放しなくてはと頭の中では考えている。そこが非常に
難しい。
ある機会があったので、この状況を教会の成人科の
方々に話してみた。何人かの兄弟姉妹も同じような経
験をしているとのことであった。その戦いが深刻であ
り、一方で主の哀れみの大きさ故に泣きながら証しさ
れる兄弟もおられた。その時に分かち合った御言葉は、
「彼の頭に燃える炭火を積む」(ローマ12:20)の
箇所であった。正直、「それは良い、彼の頭を燃やして
やりたい」と思った。
しかし、その前後を良く読むとそうではないらしい。
「炭火を積む」ことを実行するのではなく、救われて
いる私たちは「敵に食べさせ」、敵を赦しなさいという
ことであった。「復讐しては行けません。」(ローマ1
2:19)とあるように、仕返しをするのではなく、「敵
が飢えたら、彼に食べさせ、渇いたなら、飲ませ」(ロ
ーマ12:20)るのであり、その結果として「彼の
頭に燃える炭火を積むことになる」と書かれている。
そこで、心情的に仕返しをしたいという思いは持っ
たままでも、彼に食べさせるという態度を演じればよ
いのかと解釈したが、そうでもない。矛盾するようで
あるが、彼を赦さない限り、彼に食べさせるという行
為は実行できない。偽善になる。
人間的には、赦せない。ジレンマである。かつては、
同じ態度をとった自分は、イエスの十字架によって罪
を赦され、罪はないと見なされるという救いを頂いた。
自分からの努力や善行からではなく、神からの一方的
な恵みによる。だから、彼を赦せない自分も認めた上
で彼を赦すことが出来るようにと祈り、神の掟を守る
よう、その人を愛する上からの力を期待し待つのであ
る。
この経験を通じて、人を赦し受け容れていくことが
自分をどれだけ自由にし、自分を大切にしていくこと
に繋がるかということも体験することが出来た。
このような出来事は、日々チャレンジである。人々
を赦しきれなくても、日々祈りと主の力を借りて赦そ
うとする態度を堅持しようとするときに、神の恵みを
味わえると期待できるようになった。
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって
悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)
新しい職場でも、チャレンジしていきたい。

職場での証
コルネリオ会会員加瀬典文

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、
感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなた方の願い事を神に知っていただきな
さい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって
守ってくれます。」ピリピ4:6~7
このみことばには、いつも慰められます。私は今市
ヶ谷に勤務しており、仕事に忙殺されております。そ
んな私のために、コルネリオ会の教職顧問である金学
根先生が、平日の朝、仕事に行く前の短い時間に、グ
ランドヒル市ヶ谷で祈祷会を持ってくださいました。
その時に、このみことばを小さな紙に書いて渡してく
ださいました。おかげで、職場の机のすみにこのみこ
とばがいつもあります。
イエス様を信じていなければ、このみことばには、
何の力もないことでしょう。イエス様が神の御子であ
るという確信がない限り、このみことばを百回聞いた
ところで、平安は全く得られません。
イエス様が私の代わりに十字架にかかってくださっ
たことで、私の罪はゆるされました。そして、それだ
けに終わらず、イエス様は復活されたのです。だから、
罪ゆるされた私は、死後天国に入ることができ、イエ
ス様のもとで永遠のいのち、永遠の平安に憩うことが
できる。それが大きな大きな希望です。
この文章を書いている今は、イースターを2週間後
にひかえています。レントのこの時期イエス様の復活
を心から喜んでいます。
しかし、私の日常はどうでしょうか。仕事、家庭、
その他諸々の思い煩いでいっぱいです。問題に直面す
る時、イエス様はどこかに飛んでいってしまいます。
私には救いの確信があり、永遠の神様が私のことを心
配してくださることを知っているはずなのに、なぜな
のでしょうか。
市ヶ谷に何週間も泊まり込んで仕事をするようなこ
とがあります。いくらやってもきりがありません。全
くつまらないミスを犯して上司に叱られることもあり
ます。日本には「困った時の神頼み」という言葉があ
りますが、もうどうにもならない状態になってから、
ようやく「そうだ、神の御前に出なければ。」と思いは
じめます。
市ヶ谷から自転車で15分程度のところに、淀橋教
会という大きな大きな教会があります。まさしく大聖
堂と言うのにふさわしいその教会は、牧師先生も信徒
の方々も、本当に祈りに祈っておられるのではないか
と思われます。水曜日の夜、職場を抜け出して、淀橋
教会の祈祷会に初めて参加しました。
「十字架のもとぞ、いとやすけき。神の義と愛のあえ
るところ」
賛美歌に心がふるえました。義なる神は私をさばか
ずにはおられない。しかし、愛なる神は私をこころか
ら恵み、十字架により、罪をゆるしてくださった。十
字架こそ神の義と愛の出会うところである。
祈祷会の最後に、主管牧師の峯野先生が会衆に祝祷
してくださいました。その中で
「忙しい中仕事を終え、この御堂に集われた方もいる
ことでしょう。困難な仕事に立ち向かい、それを成し
遂げ、『ああクリスチャンとは、かくも力強いものなの
か』とあかしをたてられることができますように。」
との祈りがありました。
祈祷会にはビジネスマンと思われる方が多く集って
いましたが、この祈りは私のために神様が用意してく
ださったのだと心が満たされました。本当に全き平安
の中に、市ヶ谷に戻りました。
その後のある朝、上司が「君は多くの仕事を抱えて、
毎日のように泊まり込んで仕事をしている。本当にタ
フなやつだ。いったい何が君の支えなのだ?」
と質問しました。私ははっきりと答えました。
「それは信仰です。」
職場では、私がクリスチャンであることは知られて
います。しかし上司は「家族です。」とか「趣味の○○
です。」という答えが返ってくるものと思っていたらし
く、全く驚きを隠せない様子でした。
その後、少しずつ、私自身が変わってきたように思
います。祈祷会にもなるべく参加しています。また峯
野先生が「困難な仕事を抱えていらっしゃる方は、今
晩、それが解決しますように。」と祝祷されました。そ
して、翌朝のデボーションでは、ペテロⅠ5:7の
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさ
い。神があなたがたのことを心配してくださるからで
す。」とのみことばも与えられました。
私はその時問題のある仕事を抱えていました。しか
し、本当にあの晩問題は解決していたのです。翌朝の
みことばは、神様が弱い私に確信を持たせるために、
わざわざ与えてくださったものだったのです。その日、
問題のある仕事は、全く何事もなかったかのように解
決しました。
金学根先生からのみことばが、今日も私を見守って
います。多くの方の祈りに支えられて、本当に神様に
ゆだねる道を求めて行きたいと思います。

戦争について考える(その5)
コルネリオ会会員足立順二郎

戦争論
私の戦争論はおおむね以下に述べるとおりである。
ほとんどすべてを孫子によっている。また、大東亜戦
争の従軍体験、海上自衛隊勤務経験にもよっている。
孫子に頼るには理由がある。何回も繰り返して読んだ
兵書は孫子だけだったというほかに、岡崎久彦氏が「孫
子に勝る兵書はない」とどこかで書いていたのを読ん
だからである。軍事体験と読書体験の両方からいって
本当にそう思うからである。
1.政府
個人が集まって行う殺し合いも戦争であろうが、こ
こでは国と国との殺し合いを戦争と名付けて考えてみ
る。国の定義もまたやっかいだが、孫子の時代から現
代に至るまで「国」といわれてきたものが国だと、妙
な定義にならないような説明を書いておく。政体とか
国体ということには無関係である。
国をとりまとめ取り仕切っているのは政府である。
戦争は政府がやるのである。
政府の長は、名前はともかく、総理大臣である。
ひとりでは国務全部をこなすことはできないから、内
閣に分掌大臣を置く。最小限次の4人の大臣が必要と
なる。これもまた、名前はともかくである。
国内の諸々のことを管掌する内務大臣。
国にかかわる費用のことまた税金のことを管掌する大
蔵大臣。
他の国とのつきあいのことを管掌する外務大臣。
国防のことを管掌する国防大臣。
戦争というものは国の政治の中で、かなりというか非
常にというか、大事な部分を占めている。クラウゼヴ
ィッツの言だったとおぼろげに覚えているが、「戦争
とは血を流す外交であり、外交とは血を流さない戦争
である」のだから、外務大臣と国防大臣の両者は戦争
ということについてしっかりした理解と考えを持って
いなければならない。その意味で、アメリカのパウエ
ル国務長官がベトナム戦争で実際に戦い湾岸戦争当時
統合参謀本部議長だったことは高く評価してよい。軍
人は戦争の場合、命令によって死地に赴かなければな
らないのだから、戦争を知った上で外務大臣になるこ
とは大変重要なことである。
また、孫子は冒頭で、「兵は国の大事」と言い切ってい
る。ここでいう「兵」とは戦争のことである。
(注)政府には5人の大臣が必要だという考え方
は、「パーキンソンの法則」という書物によった
ものである。「パーキンソンの法則」というのは
もう数十年前に発行された書物である。相当程
度皮肉な書物で中には多分(間違いなく)フィク
ションだと思われる法則もあるが、けっこうな
るほどと思わせる法則が羅列してあった。
戦争は、軍隊を養うにしても戦争を実際に行うにし
ても、莫大な金を必要とする。戦争は、一見経済の埒
外に見えても(ことに職業軍人<後述>はそう見たがる
のだが)、決してそうではない。経済の埒内の事象であ
る。日露戦争、大東亜戦争、湾岸戦争、イラク戦争な
どを見ればよく分かる。ナポレオンもいった。「戦争は
一にも金、二にも金、三にも金だ」と。十万の師を興
すには日に千金を費やさざるを得ないのである。孫子
も用間篇13で懇々と述べている。だから、大蔵大臣
も戦争についてよく知っていなければならない。
国防大臣は当然のことながら経済をよく知っていなけ
ればならない。
内務大臣もまた戦争についてよく知っていなければな
らない。戦争になれば「内外騒動する」のである。「道
路に怠ってことを操ることのできない者は七十万家に
及ぶ」のである。(用間篇)
パーキンソンは皮肉を込めて「総理大臣は5人の大臣
の中でもっともぼんくらな者がなる」といったが、そ
んなことはない。もっとも優秀で全体を見渡す能力優
れた者がならなければならないのだから、彼もまた当
然のことながら戦争をよく知っていなければならない。
この意味で、アメリカのアイゼンハウアー大統領が軍
人だったり、彼の他にも軍人経験者の大統領が多いこ
とはなかなか意味のあることだと考えている。
2.戦争はある
いくらいやでも人間の世の中には戦争はある。
人間の業(ごう)のようなものである。原罪に基づく現象
といってもいいかもしれない。とにかくある。
しかしいやなものである。人は殺し合い家族は離散し
家は焼かれる。いくらいやであっても、「戦争はある」
ということをふまえて考えて行かなければならない。
だから、戦争を避けるためにはどうしたらいいかを考
えなければならない。「健康、健康」と叫んでいるだけ
では決して健康は保てない。健康を保つためにはそれ
なりの手だてを尽くさなければならない。
それと同じように「戦争反対、戦争反対、平和、平和」
と叫んでいるだけでは決して戦争を防ぎ平和を保つこ
とはできない。戦争を防ぎ平和を保つための手だてを
尽くさなければならない。
やむを得ず戦争をせざるを得なくなったら、どうした
ら負けないで済むかを考えなければならない。手を打
たなければならない。敗戦は悲惨である。我々の世代
は身をもって知った。
3.暴力
暴力とは、他人の意思を拘束して自分の意思に従わ
せるための物理的な力である。
ここにいう暴力とは、小は歯でかみつくとか拳固で殴
るということからはじまって、次第に刀剣銃砲となり
最大なものは原水爆に及ぶ。最近化学兵器生物兵器な
ども加わってきた。
(次回に続く)
YS49で久しぶりにある兄弟と再会し、共に聖書
を学び、祈りあう時間を持つことができました。クリ
スチャンの交わりは、単なる社交で終わらないところ
が良いところだと思います。新年度、新しい職場に移
られた兄弟姉妹も少なくないと思います。愛する兄弟
姉妹の新たなスタートの上に、神様の祝福を祈りまし
ょう。(編集子)
JMCF)
(防衛関係キリスト者の会)
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