日本キリスト教団総会議長 山北宣久牧師説教
今回は、2006年11月25日(土)に我キリ
スト教会(新宿)でなされた全日本救いの福音宣教
大会での説教を特別に掲載させていただきました。
(編集子)
今度、私は1ヶ月前の日本キリスト教団の総会で、
3度目の議長に選出されました。教団議長がこの会
に出る事は、ある人達からは自殺行為だと言われま
した、ついに彼も頭にきたか、焼きが廻ったかと。
自衛隊、防衛大学と聞いただけで拒否反応があるこ
とは、非常に残念なことであると思います。
私は、そういう中にあって、お呼び頂いたことを
本当に感謝しております。立場をはっきりする良い
機会を与えられたと思っております。私の名前は山
北宣久(のぶひさ)、音読みではセンキュー、お招き
頂き「センキュー」、これが私の実感です。
私はやりますよ、そういう中にあって。なぜなら
ば、日本キリスト教団はすべての人に救いの責任を
果たす責任を持っていないのでしょうか。先ほどの
「証」を聞いて励まされたところですが、私は、教
団がプロテスタントの中にあって、最大の教派であ
るならば、教団を生かさなければならない。教団は1
ヶ月前の第35回総会において、私達は、神の前に
伝道しなかったことを懺悔(ざんげ)して、諸教派
の人とともに日本の救いのために立ち上がろうでは
ないか。これまでの40年間、「荒野の40年間」は
紛争に次ぐ紛争で、神に申し訳ない、本当に悔い改
めをし、これから伝道しようという決議を私は12
項目にして発表した。そうしたら議長不信任案が出
されたが、議場はそれを否決し、新たに伝道決議を
した総会議長を再選したのです。
私は、議長に選ばれて最初の公的な仕事としてこ
こに来ました。私は逃げも隠れもしない、本当に良
い機会を与えられたと思っています。これからみん
な一緒にやりましょう。日本の救いのために励みま
しょう。
人間とは何か、いろんな定義が、人の数だけある。
しかし、これだけは言えるというのは、「人間は他の
人を見ることは出来るが、自分を見ることが出来な
い存在だ」ということです。人間の目は外側につけ
られており、他の人には非常に厳しい、あんなこと
をしている、こんなことをしていると言う。しかし、
それ以上のことをしている自分自身には甚だ甘い。
他の人を見ることが出来るが、自分を見ることは出
来ない。そのことから悲劇が生まれる。その中にあ
って人は何を必要とするか、それは「鏡」でありま
す。そこに映し出された自分を見るのであります。
「聖書が鏡である、もって己が心の姿を映すべし」。
そういう意味において、私達は鏡を見るのです。私
は、とっくに鏡を見る楽しみを失っています。それ
でも、今日皆様の前に出るにあたり、ネクタイをし
て無い髪を束ねて来ました。つまり、人の前に出る
のに鏡を見て身を整えるのであれば、神の前に出る
のに私達はどこで己が姿を正すのでしょうか。聖書
以外にはありません。私達は聖書を通して、鏡を見
るごとくに自分の姿を見、自分の生きる姿をそこで
再発見することができる。私達は聖書を通して、こ
れが自分の姿だ、ここで言っているこの人は、私そ
のものではないか、そういう形において私たちは聖
では8万本であると教わったと言うのです。みな違
書を通して自分の姿を見るわけであります。
聖書は、そうしたことで満ち満ちていますが、今
日は一つ非常に印象的な言葉を引用したいと思いま
す。マタイによる福音書10章31節にある「あな
たがたの頭の毛までも、みな数えられている」。これ
はとても印象的な言葉です。私は、頭の毛のことを
しゃべりたくないが、しかし、これはとてもチャレ
ンジングなことばである。人は心の中では「本当に
自分のことを一番よく知っているのは自分だ」と思
っています。教師も家族も友人も表面的なことしか
分かっていない、牧師なんかも分かっていない。一
番自分のことを知っているのは、自分だと思ってい
る。そうなんでしょうか?勿論そう言える面もあり
ます。しかし、決定的なところで、そう言えないの
です。
私は、どこから来て、どこへ行くのか知らないの
です。私は、いかになるべきか知らない。もっとも
らしく手帳を持って、スケジュールを来年の手帳に
写し替えておかねばならないと思っている。だけれ
ども、それができる保障は何もない。私は、来年ど
うなるか分からない。日本のある作家は言いました。
「人間はどこから来てどこに行くのか知らない、そ
して、風がどこから来てどこに行くのか知らない。
それで、人間は風の音を聞くと無性に寂しがる」。も
うじき木枯らしが吹くでしょう。風がどこから来て
どこへ行くのか知らないのです。イエス様はそうお
っしゃいました。人間はどこから来てどこへ行くの
か知らない。だから、人間は木枯らしの音を聞くと
無性に寂しがる。そういうおぼつかなさを持って私
達は生きている。ですから、私達は自分のことを一
番よく知っていると言い切れない面がある。しかし、
聖書はイエス様を通して「あなたの頭の毛まで、み
な数えられている」と言う。これは、どういうこと
でしょうか。
アメリカの百科事典には、人間の頭の毛は14万
本であると書いてあります。日本の平凡社の百科事
典には、10万本だと書いてある。日米でこんなに
差があるのだろうか?
うのです。ということは、私達は数え切れない、つ
まり、自分のことを一番良く知っていると言えない
面がある。しかし、聖書はそこで言うのです。「頭の
毛まで、みな数えられている、一本残らず数えられ
ている」。これはアリセミオという言葉が使われてい
る。この言葉が数学に転用されているのです。これ
は聖書から出て学問の分野を示す言葉になっている
一つです。つまり、「神様がすべて、私たちのことを、
イエスを通して知っている」と言うのです。
皆さん、それはすぐ福音だと言えるでしょうか。
ありがたいと思えるでしょうか。私は思えません、
ずっと思えませんでした。なぜならば、あなたのこ
とをみんな知っているのだと言われたら、私はあり
がたいととても言えない。あのことはどうなのだ、
私は見たのだぞ、あのことはどう説明するのだと言
われたら、もうここにいられなくなってしまいます。
そういう場面をたくさん持っているのがこの私です。
ですから、あなたの頭の髪の毛一本残らず数えられ
ていると言われたら、たちどころに消えてしまいた
い、そういう恐れを持つのです。
しかし、ここでは「あなたの髪の毛一本残らず数
えられている。だから恐れる必要はない」と書かれ
ている。これが福音なのです。
だから恐れる必要はない、なぜでしょうか、「神は、
どんな小さな罪も見逃さないお方です。だけど、神
はどんな大きな罪をも赦すお方です。」ここに、十字
架が立つのです。私達の罪を見逃さない厳しい神が、
どんな小さな罪をも見逃さない。しかし、どんな大
きな罪をも赦す、それは神が、あなたがたの罪を担
うイエス・キリストをお与えくださったからです。
イエス・キリストは十字架に付けられ、すべての
人を招くような姿で、両手を広げておっしゃいまし
た。息も絶え絶えに「父よ、彼らを赦してください。
彼らは何をしているか、自分でも分からずにいるの
です。」これは、十字架上のイエスの最後の7つの言
葉の一つです。「父よ、彼らを赦したまえ、彼らはそ
のなすところを知らざればなり。」このイエス・キリ
ストが十字架において、私たちを担ってくださるた
私は、床屋に行って聞いた事があります。理容学校
めには、受け入れてくださるには、私達はどんな小
さな罪をも見逃さない、けれども、どんな大きな罪
をも赦す方が言ってくださるから、髪の毛一本まで
数えられている、けれども恐れる必要はないと言っ
てくださる方のもとに救いを得るのです。
キリスト教信仰を一言で言うことができないかと
質問されます。こんな厚い聖書を使っていろいろな
ことを言っているけれども、一言では言えないのか。
仏教では「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と唱え
る「唱名」(しょうみょう)というものがある。キリ
スト教的「唱名」は無いのかと言われる。実はある
のです。当然あります。それは言うまでもありませ
ん。「インマヌエル、アーメン」という言葉です。あ
と 1 ヶ月もすれば、再び感謝とともに、このインマ
ニュエルという言葉を聞くことができます。「神、我
らと共にいます。」という意味なのです。これがマタ
イ1章23節にイエスが生まれたときに響いた言葉
です。それは預言者イザヤが言った7章、8章の言葉
が成就したということです。「神、我らと共にいます。
それはアーメンだ」「本当にその通りなのだ」。
私達は、真実で始まり不真実で終ってしまいます。
しかし、神は不真実なるものをイエス・キリストあ
って真実に極まってくださる。故に、私達を真実に
変えてくださる。常に私達は、始めと終わりがつな
がらない人生の中にあっても、アーメン、真実、と
言ってくださる方の下に人生を終わることができる
のです。そして、私達の祈りも賛美もアーメンで終
り、この集会もアーメンで終り散らされてゆくので
す。私達は「インマヌエル、アーメン」「神、我らと
共にいます。それは真実」、その方のもとに私達はあ
なたの髪の毛まで数えられており、赦されている、
だから、恐れる必要は無い。このことにあって、私
達は、イエス・キリストが仕えきってくださるなら、
何を恐れる必要があろうか、「我弱くとも恐れはあ
らじ、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す」日
本で最初に歌った讃美歌が、私達に福音として迫っ
てきます。
聖書には、百人隊長がたくさん出てきます。どの
百人隊長も印象的です。最初に十字架の下で、血潮
したたる十字架のもとで信仰告白をしたのは誰でし
ょう。「誠に、この人は神の子であった。」と言った
百人隊長でした。
ジョンウエインという映画俳優をご存知でしょう
か、この辺から年代の層が分かれます。ジョンウエ
インという人は、かつてあれだけたくさんの映画に
出た最高の俳優でしたが、私の俳優人生の中で一番
決定的なありがたいセリフは、「偉大な生涯の物語」
で、百人隊長をやって、十字架のもとで「誠にこの
人は、神の子であった」、この一言を言わせてもらっ
たことが、私の俳優人生の中で、本当にありがたい
全てを象徴する言葉であると言ったのを忘れられま
せん。
コルネリオ会の名前になっている「コルネリオ」
もそうです。またパウロを何とか生かそうとした隊
長もそうです。これらの百人隊長はみんな、本能的
というよりも、イエスの姿を見て、本当に自分が命
をかけてでも人を守る、私が神に救われているなら
ば、私も命をかけて神の作りたもうた人を守るとい
う形において、その忠誠心・ローヤリティを尽くし
た、ということだと思います。私達は、そういう意
味において、本当にそういうことを考えねばならな
いことだと思います。
ローマの古文書の中に、百人隊長について、こう
いう定義があります。昔の訳語は「百卒長」でした。
「百人隊長は、危険を犯す冒険家であるよりも、む
しろ、日頃養った機動力のある部下を率いて冷静沈
着に行動する、そういう信頼のおける指導者でなけ
ればならない。戦闘にあたっては、戦友を見捨てる
ことなく困難を貫く士気を与えるべく忍耐を持って
部下を励まし続け、攻撃を受けたときは、その拠点
を、身をもって守り抜くためには、死ぬ覚悟ができ
ていなければならない。」これはローマの軍律厳しい
中にあって、百人隊長の掟でした。その百人隊長は
イエスが命をささげて御旨を守った、つまり私たち
の全身全霊を罪の力から守り切り救い出して神にお
委ねするということを、敏感にわかったのだと思い
ます。そういう意味において、日本のいろんな難し
い中にあって、自衛官の方が、また、防衛大にあっ
て幹部になる方が主イエスの兵卒として最前線にあ
って、イエス・キリストの福音に一番近い方だと思
います。十字架というものは、有体に言えば、こう
なるのではないでしょうか。「あちら立てればこち
らが立たず、両方立てれば我が身が立たぬ」。
そういう両方立てれば我が身が立たない中で、一
歩も退かず人々の救いのために身をもって守る。そ
ういうファイティングセイントがいるということが、
世界を結局は救っていくことになるのです。マタイ8
章に出てくる百人隊長は本当にそういう形において、
僕のために命乞いをして、「ただ御言葉をください」
と言った。部下のために命乞いをする人はいなくも
無いでしょう、しかし、僕=奴隷のために、奴隷を
煮て食おうと、焼いて食おうと自由な時代に、そう
いう人のために命乞いをして、「私も権威のもとに
あります。部下は行けと言われれば行きます。やれ
といえばやります。死ねと言われれば死にます。あ
なたは神の子イエスであり、あなたの御言葉はすべ
てを決します。ただ御言葉をください」。こう言って
イエスにひざまずいた、そういう百人隊長がいたと
いうことが書かれている。
百人隊長と自衛官を直結しようとは思いませんが、
ほとんど重なる点があると見ることができるのでは
ないでしょうか。そういう意味で、両方立てれば我
が身が立たぬ中にあって、「神、我らと共にいます、
インマヌエル、アーメン」と言う言葉をもって、救
いを本当に戦いぬいてゆく、そういう戦士のために
祈らざるを得ないのではありませんか。そういう人
に、イエス・キリストの福音を、熱く、そして、愛
を持って伝えたい。人をかたより見ない神にあって、
主イエスの福音を宣べ伝えることにおいて一つにな
りましょう。
感謝します。
ハレルヤ。
お祈りします。主よ、感謝いたします。私達はこ
の夕べ、全ての人に救いの責任を果たすべく
「第 4 回全日本救いの福音宣教大会」を持つこと
ができたことを感謝いたします。この後面にもあり
ますように、「見よ、私は世の終りまで、いつもあな
た方と共にいる」このインマヌエルなる神がいてく
ださることをアーメンと信じて、私たちが遣わされ
てゆくものとなりますように、一人一人に豊かに
霊の実をお与えください。
そして、また、日本の教会が門戸を開き、特に日
本キリスト教団が開かれた教会として、この重大な
使命をもつ自衛官の方々のためにも、また、その方々
を通して救いが広がり、また、本当に教会の門戸が
広げられる道を選ぶこととさせてください。あなた
の栄光を現すために、私たちを用いてください。
主イエスキリストの御名を通して祈ります。アーメン
アジア大会の案内
2007年アジア大会が下記日程で行われます。
多くの皆さんの参加を御願いします。
大会テーマ:Do the Work of Him(ヨハネ9章4節)
時期:07年10月16日~18日
場所:台湾、台北
主催:台湾MCF
大会参加費:250米ドル(10月16日~18日の
間の宿泊、食事台北市内交通費全てを含む)
申し込み用紙、日程(案)は同封資料を参照ください。
お願いとお知らせ
1 異動等される方は異動先を是非ご一報ください。
2 コルネリオ会は毎月例会を持っています。都合の
つく方は是非ご参加をよろしく願いします。
3 ニュースレター発行は2006年は3回です。
(4月、8月、12月)
記事を投稿されたい方は1ヶ月前までに、下記あ
て先までメールか郵送でお送りください。
4 献金のご協力をお願いします。
5 金学根先生が証集を編集中です。ご協力くださる
方は hkk628@hotmail.com まで原稿をお送りくだ
さい。よろしくお願いします。
JMCF)
(防衛関係キリスト者の会)
コルネリオ会広報室
〒166-0003 東京都杉並区高円寺南5-33-8 2-33
電子メール:hidenobu-sayuri_enrin1211@y3.dion.ne.jp
郵便振込口座00130-3-87577コルネリオ会
コルネリオ会ホームページ:
http://www.geocities.jp/samuel1/index.html