第11回 台湾国家祈祷早餐会に参加して
コルネリオ会 会長 今市 宗雄
○ 全般
1911(明治44)年10月10日に蜂起した
孫文による辛亥革命から100年を迎えた今年10
月15日の台北水泳アリーナ会場は、5千名を超す
であろうクリスチャンで熱気に終始溢れていました。
大会の進行は、Thy kingdom come(御国が来ます
ように。マタイ6:10)のテーマに沿い、10数
名の牧師が楽団による賛美を伴い福音宣教を元気強
く鼓舞するものでした。
○ 特異点
会の前半に、信徒である馬英九総統が祝辞を述べ
られた中で東日本震災に触れられたことは、日本か
ら一人でも来て良かったと感謝する次第でした。
○ 関連事項
1 台北栄光教会での日曜礼拝
雰囲気は予想通り前大会のミニスタイルで、説
教は“今日の中に即実行”を強調されるものでし
た。新来者が10名位い紹介されていました。ま
た、その後の牧師との談話で中華人民共和国への
宣教についても十分な配慮を窺い知りました。
2 同教会での討議では、日本からは震災への献金
の謝礼、自衛隊の献身的な働きへの国民からの信
頼、コルネリオ会が主に用いられる祈願、弱小MCF
国への援助等を提起しました。なお、韓国はMCF、
台湾は宣教一般の各活躍の現況をCDで映写紹介し
ていました。よって、さしたる質疑は、ありませ
んでした。
3 台湾MCF月例会への参加
一口に言って、会員が大変に高齢化されていま
した。会員数は約200名で通常例会には15名
位が参加するそうで、私たちも少なさを嘆いてば
かりでは居れないなと励まされる思いを持ちまし
た。台湾の信徒数は、人口の約6%だそうです。
なお、前東アジアMCF会長雷兄からくれぐれも
皆様に宜しくとのことでした。
4 故宮館を訪ねて
象牙細工の緻密さと大きさには驚きましたが、
ここ100年来の外交文書類の展示は、事実のみ
で日本への非難等他の所見・説明が見当たらない
のが印象的でした。
○ 結言
東アジア会長リー兄以下12名の韓国チームと起
居を共にし、台湾を交え主にある兄弟姉妹であるこ
との喜びが体験出来て感謝な三泊四日の旅でした。
○ 付言
1 来年の台湾でのInteractionは、高雄で予定さ
れています。
2 2014年の世界大会は、南アフリカ共和国で
の開催を計画中だそうです。
以上
イスラエルの旅
会員 中村 誠一
1 はじめに
コルネリオ会の皆さん、初めまして。空自OBの中
村と申します。兵器管制官(GCIO)として勤務し
ましたが6年前に退官し、今は都内で日本語教師をし
ています。今年の9月から新宿の集会でお世話になっ
ています。昨年年末から新年をはさんで念願のイスラ
エル旅行をする機会がありましたので、ご挨拶を兼ね
て投稿します。
今、私が礼拝に参加している教会は、新大久保にあ
る韓国系の教会です。今回、弟子訓練の一環としてイ
スラエル宣教に行くことになりました。昨年の12月
下旬の朝9時過ぎに成田を出発し、韓国のインチョン
で直行便に乗り換えました。韓国のクリスチャンは聖
地巡礼に行く人が多く、航空会社もテルアビブ空港ま
での直行便を運行しています。何と12時間10分の
フライトでした。
2 行動概要
到着したのは12月28日、夜の10時過ぎでした。
途中真っ暗で何も見えない中、遠くの「ティベリ
アス」の街燈の明かりが私達を歓迎してくれまし
た。現地在住11年の韓国人聖書学者(宗教博士兼牧
師)がアラブ人のバス運転手と待っていてくれました。
さらに1時間半かけ、ガリラヤ湖畔の東側にある「エ
ン・ギブ」の宿舎まで行きました。総勢25名のうち
日本人は私一人。若い人たちが入れ替わり立ち代り私
の横に座って韓国語の日本語通訳をしてくれました。
初日(12月29日)はガリラヤ湖東岸沿いに、遠
くにヘルモン山を臨む道を北上しました。国連PKO
部隊の駐屯地を遠くに見ながらさらに北上し、「ダン」
の遺跡(北王国)や「バニアスの滝」、豊かな水源のある
「ピリポカイザリア」、「カペナウム」へ。「山上の垂
訓教会」を経て夕方「ティベリアス」の港から観光船
に乗り、約1時間半で宿舎に戻りました。船上での夜
の賛美は忘れられません。
二日目(12月30日)はガリラヤ湖周辺地域へ。
雨の中、「ヨルダン川」でイエス様が洗礼を受けた場
所を見た後、「カナ」、「ナザレ」の町、そして「メギ
ド」へ。「カルメル山」のエリア記念教会を経て海辺
(地中海)の街「カイザリア」へ。「コルネリオ」ゆ
かりの地ですが、私はまだ「コルネリオ会」のことを
知りませんでした。
三日目(12月31日)は早朝にエルサレム市内を
一望する丘で黄金のドームを複雑な気持ちで眺めま
した。エルサレム誕生の場所「ダビデ城」の遺跡を見
た後で「ヒゼキア水道」へ。圧巻でした。人間が一人
くらい立ちながら通れるような幅1m弱の狭い岩肌
の水路を、20人くらいが一列になって約30分くら
い歩く(533m)のです。水深は50センチ程度で
深いところは腰あたりまでありました。水は小川のよ
うに流れています。照明は無く、携帯用の小さなライ
トが手渡されるだけです。閉所恐怖症のような方は入
らないほうが無難です。「オリーブ山」、「ゲッセマネ
の丘」、その後、雨の中を両脇にアラブ人が店を出し
ている幅3~4メートル程度の商店街の狭い道、イエ
ス様が十字架を背負って歩いたという「ヴィア・ドロ
ロサ」を涙を流しながら歩きました。聖書に記されて
いるイエス様の受難の場所に説明立て札がありまし
た。「第1地点:ピラト法廷が開かれた場所」、「第7
地点:イエス様が2度目に崩れた場所」等々、8箇所
ありました。夜になると土砂降りの雨の中を「嘆きの
壁」へ。大勢の人の中で、ずぶぬれになって祈ること
が出来ました。夜11時過ぎに韓国の教会に招かれ、
新年の祈り会に参加しました。賛美歌を歌ったり、若
い人たちはブレークダンスや演劇を披露しました。
四日目(1月1日)は昼前から市内にある「イスラ
エル歴史博物館」へ行きましたが、山口県の10名程
度の団体さんとお会いし、双方ともびっくり!ここで
日本人に会えるなんて思ってもいませんでした。「ホ
ロコースト記念館」ではユダヤ人迫害の写真や物品に
涙を禁じえませんでした。夕方には宣教の目的のひと
つである「メシヤニック・ジュー」の信徒の教会で活
動をしました。ロシアから移住した人やエチオピアか
らの移住者(れっきとしたユダヤ人で黒人の方)が多
いのには驚かされました。教会の周辺では、ユダヤ教
徒からの妨害活動が年に数回あるとのことでした。
五日目(1月2日)は「アラド」に行きました。オ
リーブが繁る小高い丘の上から「ダビデとゴリアテ」
の決闘舞台を眺めましたが、韓国の牧師、信者はいた
るところで熱心に祈りを捧げます。ギターひとつで賛
美歌を歌います。私は日本人信者として静かに祈りま
した。4時半過ぎに「ベール・シェバ」に到着しまし
たが、既に門が閉ざされていました。ガイドの牧師は
「こういうことは何回も経験している」と言い、私達
は門を乗り越えて中に入りました。夕日が沈む中を、
貨物列車がゆっくりと砂漠の中を進んで行きました。
井戸の遺跡があり、小石を落とすと4秒前後で音がし
ます。70m程度の深さがあるのでしょうか。夜は「エ
リコ」の街に行きましたが、暗くて城壁などは見るこ
とが出来ませんでした。
六日目(1月3日)は死海方面まで南下し、クムラ
ン遺跡、マサダ砦、ダビデが隠れた洞窟・エンゲディ、
そして死海で実際に泳ぎました。ただ浮かんでいただ
けなのですが、読書が出来るほどの不思議な浮力を体
験しました。腰までの深さの海底から泥を取り、全身
に塗りましたが、化粧品としても売っているほどの
「商品」が無尽蔵にありました。泳いだときは少し肌
寒い感じがしました。イスラエル最後の夜は、海岸に
ある「ヨッパ」のホテルに宿泊しました。
3 感じたこと
30年以上にわたり、自衛官として生活したのです
から当たり前なのでしょうが、見ること聞くことすべ
てに「聖書」よりも「軍事的側面」で考えている自分
を発見し、苦笑しました。ガリラヤ湖畔東岸を北上し
たときのことですが、バスの停留所が分厚いコンクリ
ートで造られ、「銃撃戦からの避難所」の様相をして
いるのです。これはエルサレム市街地にも多く見られ
ました。多くの人種と多くの宗教がこの狭いエルサレ
ム地域に集中しているのです。海外旅行者に人気のあ
る「簡易保険」に関しても、エルサレムから周辺30
km以内は適応除外です。テロ事件やロケット弾が飛
来したら、などと考えずにはいられませんでした。
国連PKO部隊の駐屯地を見下ろせる休憩所のす
ぐそばに小さな山があるのですが、そこには通信用ア
ンテナがたくさんありました。しかし、不思議に思
たのは「対空レーダー」を見つけることが一度も出来
なかったことです。日本のようにレーダーサイトが丸
見えの状態の方がおかしいのでしょうが・・。ゴラン
高原の横を通ったときには、この上空で大空中戦が行
われ、西側兵器の優越性が確認されたのか、とGCI
Oとしての勤務当時を思い起こしました。カルメル山
の「エリア記念館」の上空をジェット戦闘機が1機飛
んでいきましたが、外国で初めて聞く戦闘機の爆音で
「クフイル(ニックネーム)か?」と見上げました。
そのふもとに空軍の飛行場がありましたが、滑走路が
一本の小さな基地で、看板も何も見ることが出来ませ
んでした。古戦場を見ても、この場所ならこっちに陣
を敷いたほうが有利だとか、迂回路は、水や食料はど
うして調達したのかとか、馬や槍が常套手段の時代の
連絡手段には「狼煙」が有効だったのでは、などと想
像力をたくましくしました。死海周辺には「はげ山」
と「砂漠」が連なり、ごつごつした火山性の岩肌は農
業には不向きです。
中でも今回の旅行で私の心に強く残った場所は(聖
書には書いてありませんが)「マサダ砦」でした。ロ
ーマ帝国に反逆し、約1年にわたりユダヤ人が立てこ
もった玉砕地です。山頂にはケーブルカーで登りまし
たが、ローマ軍が砦の攻略のためにユダヤ人捕虜に作
らせた登坂道路や、雨水を効率よく溜め込む水道施設
などがありました。ここで約千人の人が「自国を守る
ために命をかけた」のかと思うと、涙が止まらずに困
りました。「ノーモア・マサダ」とイスラエル陸軍の
入隊式典で叫ばれる意味が痛切に感じられ、国旗に対
し「個癖あふれる敬礼」をしてきました。
4 最後に
聖地イスラエルへの旅行には種々の考え方がある
ことは理解しています。聖書を信じ、キリスト者に
なったからには一度はイエス様の歩いた場所を自分
の足で歩いてみたいとの素朴な感情から行ってきま
した。聖書に書かれている場所を実際に歩いてみる
ことで、自分の中の聖書に対する愛着が強く、さら
に強くなりました。
現役時代にはコルネリオ会のことを知らず、私に
とって初めての集会(9月・新宿)で「元自衛官が
祈っている姿に驚いてしまった」のですが、今市会
長の話し方に久々に「自衛隊」の雰囲気を感じ、嬉
しくなりました。機会がありましたら(今度こそ)、
陸、海、空の垣根を越えてお会いできればと思って
います。よろしくご指導下さい。そして、皆様お元
気でお過ごし下さい。
黙想と祈り(その1)
会員 長濱 貴志
街路樹の木々が11月になって緑から茶色、茶色から
橙、橙から紅ヘと変わり、そして色付いた葉が散り始め
ています。秋の深まるこの季節は、歩くのが楽しい季節
です。
先日の礼拝後教会で、「黙想と祈りの手引き」(加藤常
昭著)のタイトルが目に留まりました。本を開き、第2
部 黙想への勧めから早速読み始めました。
黙想の手段として、① 自然との対話、②散策しながら
の黙想、③芸術作品(絵画、彫刻、音楽)との対話、④
書物との対話、⑤信仰の仲間との対話が紹介されていま
した。
黙想とは何か、黙想による効果は何か、自分が日頃公
園を散策していることは、著者のいうところに当てはま
るのか。色々疑問が湧いてきました。
結論から言えば、私の想像以上の深さ、広さ、主イエ
ス・キリストとのことを紹介されておられました。
○ 黙想とは何か。
どうも、祈りとは違うようです。黙想とは、み言葉
から聴く姿勢を整えて、神との対話を楽しむものでした。
ポイントは、 み言葉に始まり、み言葉に終わること。
一人での黙想は、聖書の言葉を何度も読むことから始ま
る。というものでした。
姿勢としては、祈りの様に、我が祈りを神に捧げるこ
と、懇願すること、期待すること、求めることよりも、
聞くこと。頭の中を空っぽにして、聖書の言葉に対する
主からの語りかけが与えられるまで待つことが重要と
のことでした。
そして黙想の効果として、黙想での神との対話が祈り
や説教につながっていくとのことでした。
カール・バルトという高名な神学者の息子さんが父上
が黙想を大切にし、実践されていたというのです。そし
て、次のような「祈り」という文章をその息子さんマル
クース・バルト氏が著者に送られたそうです。
「わたしに耳を傾ける人にとって、わたしの言葉はその
人の言葉より重い。
わたしに信頼を寄せる人によって、わたしの企ては、そ
の人自身の計画より重い。
わたしに望みを寄せる人にとって、わたしの子イエスは
最上の同伴者であり続ける。
わたしに忠実であり続ける人に、わたしは常に悔い改め
を教える霊を送る。」
ご子息マルクース・バルト氏は、「わたし」である神
に祈ることをやめてしまって、「わたし」と言って語り
かけておられる神の言葉を聞き続けておられるのです。
これは、父カールバルトが聞き続けていた言葉だと言う
のです。「わたしに耳を傾ける人」というのは、父上カ
ールバルトです。
教室で、教会堂で語り、ある時クリスマスには、バー
ゼルの刑務所でも語った優れた神学者は、その強い神へ
の信頼の中、黙って、神の言葉を聴いていました。
今回は、ここまでの紹介とさせていただきます。
次回は、具体的な黙想の例、取り扱うみ言葉の例、黙想
の楽しみ方等を紹介したいと思います。
(次回に続く)