News Letter No.7 1972.7

☆サタンよ退け
「マタイ福音書4章1−11節」

 この部分はイエスが、その公生涯をはじめるに当たって、サタンの横行する

この世の中にあって、我々人間が如何に正しく生きなければならないかを、身

をもって示して下さった所と考えられる。ここにはサタンとイエスとの間に交

わされた三つの問答が書いてある。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたも

のであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である(・テモテ

3−16)とあるように、この三つの問答から次のような事が示されるのでは

なかろうか。先ず第一は、我々が生活するための食物の事について書いてある。

我々はこの平和時において、幸、衣食住について困ることはない。食料も不足

する事はないし、衣についても欲を言わなければ、十分威厳を保つに足る衣服

が与えられており、又住にしても狭いと言っても我が家が与えられている。サ

タンはこれについて、我々に不満の気持ちを起こさせようと常に我々をそその

かし誘惑しようとしていることがわかる。イエスはこれに対して明解に答えら

れた。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉

で生きるものである。」これは全く驚くべきみ言葉ではなかろうか。我々の目

には兎角生活のためには物質的なもののみが必要であるかのように思はれる。

しかし、生活に必要なものは実はそれだけではなく、それではまだ必要なもの

の半分しかならないのである。残りの半分は何であろうか。それは物質だけで

はどうしても満たされないもの、精神的なかてと言おうか、心のゆとりと言お

うか、我々の心をあたたかく包んでくれるものと言おうか、もっと霊的なもの

か、それが神の口から出る一つ一つの言葉の中にある、と言われるのである。

み言葉こそ日々のかってと言われる所以であろう。第二の問答は与えられた権

威に関する事である。我々公の職につかえる者には、その立場立場に応じて権

威が与えられている。そして一人一人がこの与えられた権威を正しく行使する

ことによって組織として強力な力を発揮することが出来る。サタンは之に対し

て何と言っているのであろうか。「若しあなたに本当にその権威があるのなら、

それを今行使してみてはどうか」というのである。過ぐる大戦には多くの人々

が海外に出ていったが、その或る者はサタンの誘惑に負けて、その与えられた

権威を不法に使ってしまった。そして誤った権力の使用によって、また統制の

とれないまま勝手に権威を濫用したため、その結果はサタンの思いがそのまま

猛威を振るうこととなった。そのための戦の傷跡は二十数年たった今も尚東洋

の各地に残っているのである。イエスは言われた。「主なるあなたの神を試し

てはならない。」聖書にあるように(ルカ12−55)恐るべき者がだれか、

からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな、恐

るべきは主なる神のみである。第三は繁栄についてである。サタンは言った。

「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあ

げましょう。」この世のすべての栄華をくれるというのである。ああ何という

誘惑であろう。ここで人生の目的が二つに分れる。サタンの奴隷となって栄華

を求めるか。或いは目的を他のもっと有意義なものに求めるか。サタンが果た

して言う通りにしてくれるかどうかは明かではないが、少なくとも約束はして

いるのである。あなたの人生の目的は何でしょうか。イエスは彼に言われた。

「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」そこに永遠の神の国が約束

されるのである。そして幸か不幸か我々は栄華にはあまり縁がなさそうな仕事

に従事しているのである。自衛官とは我々キリスト者には全く適合した職では

なかろうか。サタンよ退け。


☆武士道・キリスト者と自衛官(その1) 矢田部 稔
1.触らぬ神にたたりなし

 現代日本人の精神的特徴の一つは、無宗教、宗教に対する無関心であり、こ

れは内外の識者から指摘されていることである。特にキリスト者に関しては全

く何も御存知ない方が少なくない。キリスト教会が大きく分けて新旧の二流に

分かれているという程度の事は、日本の国政にたとえて言えば国会が衆議院と

参議院の二つから成るといった程度のことと言えよう。自衛隊における教育は、

広汎多岐にわたって行われ、部外の人がたまたまその片鱗を知った時、「自衛

隊ではそんなことまで教育するのですか」と驚嘆するくらい、人間生活のさま

ざまな面にまで及んでいる。だが、しかもその中でポッカリと大穴をあけてい

るように思われる点がある。そもそも宗教・信仰というものは憲法第二十条を

引用するまでもなく、国家がこれを信ぜよと命ずべきものではなく、個人の責

任においてなすべきものであって、聖書にも「カイザルのものはカイザルに、

神のものは神に返しなさい」とあるとおり、国家の関与、指導すべき面と、国

家の指導・統制を越えた面とが人間生活にはあって、前述したように自衛隊の

教育の中に大きな穴のあることは、むしろ当然であろう。

 国家として必要な統制、指導をすべきにもかかわらず、それが出来ないなら

ば、弱い勝手気ままな社会、穴だらけの国家ということえあろう。我々はその

ような弱い国家ではなく、強い正しい国家でありたい。しかし一方国家が全能

の神の座に昇り、人間生活のあらゆる面について意の如くに統制出来、またし

ようとするのであれば、それは全体主義国家であり、悪魔的な国家である。徳

川時代の長いキリスト教禁教策の時代を通して養われた「触らぬ神に祟りなし」

という習性は、近代日本にとっても引き継がれ、おまけにハイカラな近代イン

テリとは脱宗教の人種を指すのだとの皮相な考えを輸入したり、また国家と教

会の衝突という事態や、政治と直結した宗教の出現などにも影響されて、その

定着度を深め、ともに角にも、その穴の近くにいきさえしなければ祟りなしと

して、穴のあることを殊更に見ようともしない者、ましてその穴の中を探して

研究してみようなどとは思ってもみない者、無信仰者、無宗教者を作っている

のが現状ではなかろうか。まことにこの穴に至る門は狭いのである。



2.ヤソ宗教は外国の邪教

 仏教はインドで生まれたものだから日本のものではなく、外国の宗教だといっ

ても通用しないように、キリスト教は外国から伝わったものだから外国のもの

だと言うことは正しくない。しかし教会の牧師が日本人であるかどうか心配さ

れる方もなくはないので、明治時代の先覚者のとった態度をもう一度見直して

みることも無駄ではあるまい。明治時代は長い鎖国の幕を上げて国際社会の中

に飛び込んだ時代であり、日本民族としての自覚意識は極めて高揚され、日本

の古代が研究され、日本精神が盛んに求められた時代であり、また特に日清、

日露の戦勝により民族的自信が著しく高められた時代でもあって、和魂洋才の

スローガンのもとに外国の物質文明は取り入れても大和魂以外の精神を輸入す

ることは相成らぬとばかり、外国からの精神文明に対し極度の反発と警戒をもっ

た時代であったので、当時の牧師、伝道者達にとって、「キリスト教は外国の

もの」という攻撃は大いに痛かったらしい。その時、内村鑑三は「代表的日本

人」を著して、代表的日本人と考えられる、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、

中江藤樹、日蓮上人の五名をあげ、彼らは教義は知らず、福音にあずからずと

も、あたかもキリスト教に触れたかのような人物であることを論証している。

(桜美林大学長 清水安三氏によると藤樹は隠れキリシタンであり、また隆盛

の学んだ陽明学はキリスト教の影響を受けている。)

−次号につづく−


☆防大聖研における話し合いから
(キリスト者自衛官としての問題の提起)

キリスト者自衛官として常に問題になることは、万国共通なことであるが平和

と戦いとの関連についてである。聖書には「殺すなかれ」「自分を迫害するも

ののために祈れ」と書いてあり、これはどうしても避けることが出来ない。戦

争論では敵がい心が必要であり、しかも中途半端なものえはなく、最大限の敵

がい心が高揚されなければならない。戦では勝利を得るためには撃破という生

やさしいものではなく、せん滅という考え方で行かなければならない。軍事学

ではこれが要求される。しかるに教会とか、世に言うクリスチャン一般では無

抵抗主義とか絶対平和とか、中には敵が来たら殉教するなどと言う立場の先生

もいる。聖書は果たしてこのようなことを言っているのだろうかという考え方

に先ずつき当る。勿論聖書はその読む人に向かってそれぞれの人の立場に対し

て与えられるものが異なると言うことは考えられるが、それはどういうもので

あろうか。しかし聖書には別の箇所には、ヨシュアやダビデのように神の名に

おいて戦いに参加していることもあり、又カペナウムの百卒長のように軍人と

して立派に行動している例もあるのこれらの事は両立するだろうという安心感

はあるが、しかも尚「殺すなかれ」という言葉はひっかかる。

 米軍の例を取れば戦争裁判の記事でもkillの他にdestroyとかdefeatとかの

言葉を用いているが、これでもこの点を避けることは出来ず、未だに完全な解

決はない。

 又、米軍のある士官(Wilson中尉)のあかしによれば第一に義であり、次に

平和と言っている。聖書の平和は義の結果としての平和であり、義であり得な

いときには平和はあり得ないとしている。キリスト者としては神の義を求める

ことが第一であり、それによって平和が与えられるわけで、主は正しい者には

平和を賜るが、不義な者には賜らない。そしてイエスは「心をさわがせるな。

おじけるな」とはげましの言葉を与えている。(ヨハネ14−27)「殺すな」

という事は心の動機であることも大きい。にくしみとか、うらみとか肉体的に

は殺していないが精神的には殺しているという場合がある。そして又どうして

も殺さなければならないときには神の義とされる戦においてのみこれが許され

る。実際には地上にある政府の命令で戦場に行く。これをやらなければ偽善に

なるのではないか。この点に本当の信仰が必要なのでなかろうか。以上は問題

提起であり、自衛官としては一度は解決しておかなければならない問題であろ

う。読者よろしくご判断の上、解凍をよせられるようお願いする。


☆コルネリオ列伝(1)
「元陸軍大佐 牧師 岩井 恭三」

 元軍人で、終戦後牧師になった人の名は以外に多い。しかし、旧軍隊内でキ

リスト者として立派な証をしながら第一の転職を全うし、且つ終戦後第二の天

職として牧師になった人の一人が岩井恭三先生であろう。先生は惜しくも昭和

45年に昇天され、今はこの世でお会いすることは出来ないが最近先生を偲ん

で、近親、知人の思い出を集めた文集「真帆を上げて」が出来たので、それか

らの一文を通して先生を紹介しよう。筆者パックストン師は現在英国OCUの

指導者であり、一昨年来日の際防衛大学校にもおいでになり、我々コルネリオ

会員とも主にある交わりの時をもったことがある。尚有名な日本伝道隊を設立

したパックストン師は彼の父君である。

 「ゴッドフレー・パックストン」



○主キリストを信じた岩井先生

 1967年、岩井牧師夫妻が渡米された。それは息子の満さんが、聖書同盟

の宣教師としてインドネシアへ派遣される前、その訓練期間が終わろうとして

いるときだった。

 私どもは、岩井牧師のメッセージと、目がほとんど見えない岩井夫人の聖徒

らしさに、深く感動した。これが私と彼らとの出会いであり、私はその時以来、

彼等を愛するようになった。

 岩井牧師はかつての日本陸軍に属しており、大佐にまで昇進された。英国将

校たちの集まりで、彼は自分が少尉の時、主イエス・キリストを信じ、自分の

罪からの救い主として受け入れるまでは、異教徒のようであったと語った。大

きな喜びが洪水のように彼の生活を満たし、憲兵が他人に証しするのを止めろ

と命令したのに止めようとはせず、証しを続けた。それで憲兵は彼を追放する

ようにと上官に勧告したが、上官は、彼の軍務態度を調査した後で追放するの

を拒否した。



○感謝の祈りと必要の満たし

 岩井先生はその信仰生活の初めに、神が自分の個人的必要を満たすことが出

来るお方であることを学んだ。砲工学校に在学中、ある工場見学のために旅費

が必要であった。日曜日の礼拝の主題は「感謝をもって祈りと願いとをささげ

ること」(ピリピ406)であった。

 しかし与えられる前にどうして感謝できるだろうか。彼は自問した。その時

感謝は信仰のあらわれであると教えられた。「何事でも神のみ心にかなう願い

をするなら、神はその願いをきいて下さるということ。これこそ神に対する私

たちの確信です。私たちの願うことを神が聞いて下さることを知れば、神に願っ

たことはすでにかなえられたと知るのです。」(第1ヨハネ5.14)

 なおいぶかりながら家に帰り、そのお金を祈り求めたが、次のようにつけ加

えた。「でも主よ、あなたは私に感謝をもって祈るべきだとおっしゃいました。

ですからわたしは感謝してお願いします。」この半信半疑の祈りに答えて主は、

そのお金の半分を送って下さった。そこで彼はまた祈った。「主よ、こんどは

あなたが残りのお金を必ず与えて下さることを信じて感謝します。」と。翌月

曜日の朝、彼はいっさいの必要を満たされてその工場へ出かけていった。この

事を通して彼は、必要なお金が与えられたということ以上のものを神から受け

た。それは神がその御約束に従って、お金を賜っただけでなく、人智をはるか

に越えた神の平安を賜って、その次の聖句(ピリピ4.7)をも満たされたか

らである。彼は、神が忠実な方であることを確信できたし、この確信は戦時中

も、平和の時も全く当惑してしまうような状況下でも、一生涯彼から去ること

がなかった。



○敵の心の中にもたらされた平安

 北支で、占領区域の鉄道を保持したり修復したりする責任に当たっていたと

きのこと、重要な工場を占領した。その時工場の労働者たちが捕らわれの身で

あるため恐怖におののいていることを知った彼は、キリスト者として、何とか

この恐怖から救い出したいと感じた。そこで彼らを一カ所に呼び集めて、「私

はクリスチャンである。またあなたがたの生命は保証する」と告げた。それか

ら皆を釈放した。このことは勿論、同僚の将校たちの反感を買ったが、彼は労

働者たちに「次の日に工場に働きにくるように」と求めた。翌日十人が帰って

来、翌々日には捕虜とならなかった者たちも含めてほとんど全ての労働者たち

が帰って来た。彼らは、岩井中佐やその部下たちが食糧の制限を受けていたの

に、労働者と家族には十分な食物があり、またその村の食糧が無事に供給され

るように保護した。



○敵の間での礼拝と後の交わり

 フィリピンでは彼はその国の敵ではあったが、いつも地方教会に出席した。

土着民の間に入っていくので生命の危険を犯しながら、フィリピン人牧師と彼

は、お互いの国家と、その場所で戦っていたが、深い交わりを持った。戦後彼

の息子がその牧師を訪問した。その牧師は、岩井大佐をかつて自分があった中

での最も偉大な友であると語った。彼の写真がその牧師の書斎にかかっていた。

1945年、彼は”人智をはるかに越えた神の平安”が自分の心を満たしてお

り、敗戦しても彼と部下のキリスト者は、連合軍のキリスト者将校や部下たち

と真の霊的交わりを持てることを見い出した。

 彼は主イエス様は我々を大きく変えうる方であり、憎しみの代わりに交わり

の種をまき、又軍務をよく果たされる方である。だからキリスト者として指揮

をとることは、軍隊の義務を遂行するときにもどんなに有益であったかという

ことを語ってくれた



○クリスチャン・ホームの影響

 岩井家では五人の息子と一人の娘がいる。彼らは皆主イエスキリストに積極

的に仕えている。クリスチャンが家庭において、子供たちの前に活き、聖書の

真理を子供に教えることは、現在の世の中にとって、大変重要である。なぜな

らそれによって子供たちも、また他の人も、神の救いが、家庭や将来の仕事や

戦争においても何かを生み出していくかを理解できるようになるから。そして

また救い主から与えられる祝福を認め、子供たちが主に信頼することができや

すくなるからである。岩井大佐は日本のキリスト者将校連盟の方のお父さんを

通して信仰へと導かれた。日本の人々が聖霊に満たされ、岩井大佐がかつてそ

うであったように、神の兄弟姉妹となりうる他の人々をイエスキリストに導き

うるように祈る。



☆通 信
◎北海道地区(島松、千歳、札幌)のコルネリオ会で6月11日すずらん狩を

行った由、すずらんを航空便で送って頂きました。有り難うございました。主

にある交わりを感謝すると共に益々御発展を祈ります。



◎滋賀県今津の日基今津教会の浅見文博牧師から次のようなお便りがありました。

 主の聖名を讃えます。コルネリオ会のことは小森邦治兄から伺いました。神

の国建設のため共に励みましょう。今津には自衛隊の駐屯地があり、教会の幼

稚園にも約半数(35)の幼児が隊員のお子さんです。こうした子供たちの家

庭が神の守りのうちにおられるよう祈っております。四年前には益田泉女史

(シベリヤ女囚)をつれて、隊内で話をさせていただきました。では会員のみ

なさまのご健闘を祈ります。



◎千葉愛爾牧師(日基久里浜教会)から

 タイプ版になって大変読みやすくなりました。短くてもよいから多くの人の

一筆が頂ければよいですね。・・・・・



◎相原正勝牧師(沼津市香貴教会名誉牧師)から

 皆様の御文章誠に有益に、又面白く拝見しました。軍人の皆様は、やはり理

屈よりも実際の体験を語っておられるので、心を動かされるものがあります。

 主イエスがローマの百卒長の真実、率直な態度と言葉に動かされたことを思

いおこしました。たとえ軍人が必要のない世界になっても、いつわりのない、

真実の軍人精神は人類に必要な「地の塩」として本当に必要なものと信じます。

昨年末の飛行機の衝突事故や、シビルコントロールの問題等、重大なことが次々

に起こっており私共も自衛隊の健全な在り方の為に祈っております。自衛隊が

平和を守る隊として正しくその存在価値が認められることを祈っております。

又お目にかかる機会をめぐまれますよう祈ります。皆様によろしく願います。



☆昇任・転勤・住所変更等の場合はお知らせ下さい。

☆コルネリオ誌原稿募集。論説、あかし、近況、通信何でも結構です。



コルネリオ会事務局

 横須賀市走水一丁目 防衛大学校

 応用物理学教室 射理研内