News Letter No.9 1973.7


★召 命

[ヨシュア記1章7、8、9節 マタイ8章8、9節]
 「ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあ

なたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも

左にも行ってはならない」これは将軍ヨシュアの出陣にあたって

神が彼に与えられたみ言葉である。また「主よわたしの屋根の下

にあなたをお入れする資格はございません。ただお言葉を下さい。

そうすれば、しもべはなおります。わたしも権威の下にある者で

すが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に「行け」と

言えば行き、ほかの者に「こい」と言えばきます。またしもべに

「これをよよ」と言えばしてくれるのです。という一軍人の言を

聞いて、イエスキリストは「これほどの信仰を見たことがない」

と絶賛された。

 世に職業は多々あるが、その生活にこれだけのきびしさを要求

されるものは少ないであろう。今の時代に合うとか合わないとか、

そんなことを言っていたら自衛官になり手がないとか、色々議論

はあり、我々の思想や人生観はその時代によって変わるであろう。

しかしそれにもかかわらず、これらのみ言葉は軍人の進むべき道

を示して、昔も今も変わることがなく、聖書のみ言葉であり、真

実なのである。

 剣をすきに打ち変える時代の到来を聖書は予告し、そのような

時代を待ち望んではいるが、回りの状勢から見て今はまだその時

ではないように思われる。そして現代の入り乱れた世にあって、

その非違を抑制するために主は人間に武器をお与えになった。し

かし主はその武器を保持する者に対して、特別な使命と訓練とを

義務づけられたのである。だから選ばれた者だけが武器を正当に

保持することが許され、且つその責任を問われるのである。

 国内的に見て我が国では正規の訓練のもとに定められた戒律の

もとに行動する警察官以外は原則として武器の所持を許されない。

これは聖書的に見て理想に近いのではなかろうか。又国際的な非

違から国を守るために我国では自衛隊が備えられている。これの

武器の保持、使用のためには如何に多くの訓練努力が行われても

これでよいという事は無いであろう。

 ヨシュアに対する神のみ言葉を思えば、我々自衛官が徳育の面

で次元の低い生活をすることは許されない。

 聖書には召命という言葉があるが、これはこのような選ばれた

使命を神から命ぜられる事であり、少なくともキリスト者自衛官

はこの召命を自覚して主の道にはげむ必要があろう。(ローマ人

への手紙14章6〜8節)

 イエスキリストはその弟子を伝道につかわされるのに胴巻にお

金を入れて行ってはいけない。袋も下着も靴も持って行くなと言

われた。(マタイ10章10節)我々が召命を受ける時には、す

べての必要なものは天から支給されるのです。そしてその中で、

その枠の中で活動するのに必要且つ十分なものが与えられると聖

書には書いてある。(マタイ7章7〜9節)

 普通召命を受けて牧師になるためには、先ずこの世の経済的な

つながりを放棄して神学校に入り、困窮を通して主の訓練を受け

る事が多い。

 しかし自衛官の場合はこれとは少し異なり、その困窮は経済的

ではなく、もっと異なった形の訓練である。そしてそれに対して

我々は決してへこたれてはならないし、またそれに耐える力は主

が豊かに与えて下さるのである。主の訓練を軽んじてはならない。

主は我々をむち打たれると同時に、それからのがれる方法もそな

えられているのである。(コリントI 10章13節)




☆ 主に従がえ

 小平教会 牧師 井上 淑
 列王記下 5章1〜14節
 エリシャは外国の将軍が部下をしたがえ、土産物を大量に持参

して威風堂々と彼を訪問した時、出迎えることさえせず、主のみ

口よりでる言葉だけを将軍に伝えさせた。エリシャはこの世の権

力にこびず、ひたすら主のみそば近く侍べって、そのみ口よりで

るみ言葉にのみ従った。それ故にエリシャの言葉には力があった。

 ナーマンが将軍としての威厳を保ち続けようとしていた時に、

自己の知性にのみ頼っていた時、彼の悩みは深く、病いは癒えな

かった。もし彼が最後まで主の言葉を軽視し、従うことを拒絶し

続けたならば彼の悩みは消えず癩病は遂に癒えなかったであろう。

ナーマンは何かしたのではない。ただ主の言葉に従った時に彼の

病いは癒え、悩みは去った。

 今は全世界は病んでいる。癩のようにむしばまれ、腐りつつあ

る。この危機に当って、世界の指導者階級がこぞって、この世の

権力にこびず、私利私欲を離れ、決然として、主のみ言葉にのみ

従うという行動に立ち帰るならば、病める世界はその健康を取り

戻すこと確実であろう。(ロダンの作品はロダンでなければ回復

できない。)世界もまた、その創り主以外に回復することはでき

ない。世界の創造者のみ言葉に従う!!これに優るところの回復

方法が他にあるだろうか。主は仰せ給う。(我に従え)(心をつ

くして、主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。)

箴言3章ー5節

☆武士道 キリスト教と自衛官(その3)

  矢田部 稔
 
 さて明治の話はさておくとして、民主主義と人権尊重の現代に

おいて、武士道とは古臭いものであり、死んでしまったものであ

ろうか。「切腹」は切腹してしまったのであろうか。それが現在

も健在なのである。ここでは三島由紀夫氏の切腹をさして言うの

ではない。去る46年夏の全日空機とF86の空中衝突の事故の

時に、日本中のマスコミが防衛庁長官の辞職をせまり、又事故発

生直後遺族に挨拶する空幕長に対して土下座を要求し、パラシュ

ートで脱出したパイロットについて、彼はいっそ死んだほうがよ

かったと公言し、あるいは口には出さなくとも多くの人がそう思

った事の裏側をさして言うのである。これらの事は短刀を渡して

切腹をせまることとどこが違うであろうか。まさに切腹こそ、今

日の日本社会の基本的な要求であり、特に大新聞が好んで求める

ところのものである。これらの事から切腹が現在息が絶えたなど

とは大変な事実誤認であろう。イザヤベンダサン氏がその著書「

日本人とユダヤ人」で言及している所によれば、切腹は解決不能

と思われるような困難な問題に直面した時、日本教の神の怒りを

しずめるため、すなわち世間様の強烈な基本的要求に服するため、

自らの意志で執行する日本教の儀式とでも言えようかということ

である。このような要求を持つ社会において、仕事らしい仕事を

しようとすれば、どうしても落ち着くところは結局武士道のお世

話にならなければならないことになるのではなかろうか。

 この事はキリスト教界においても同じである。少し前の話にな

るが、万博出展問題等で火がついたわが国キリスト教界は44年

頃から混乱状態に入ったのであるが、その解決に奔走中のある責

任ある地位にある牧師にお話をうかがっている間に気がついた事

がある。彼がしきりに強調し、且つ反対者に対して攻撃のために

使用している言葉に「武士道的でなければならない」とは「それ

は武士道に反する」等というのがあった。またあるキリスト教関

係の新聞社説には、この混乱の原因について、公けの機関で議決

したものを、その執行責任の地位にある者が、あとになって、「

実は個人的には反対であった。」などと口にすべきではなく、も

しそうであるなら、その時辞職すべきであって、現代的「腹切り

」が出来なかったところに、造反勢力に乗ぜられるすきがあった、

と論じている。

 精神医の土居健郎博士は、日本人の精神構造を理解するかぎの

概念は「甘え」であると指摘している。又、親子関係、先輩後輩

の関係、義理人情の世界、絶叫する新左翼の活動家の心理、さら

には彼らに漫然と同情する世間、我こそは戦争被害者だという人

達の意識等、これらを甘えと分析し、日本人は甘えの支配する世

の中を人間的な世界と考えていると言っている。彼は又つぎのよ

うにも言っている、即ち敗戦によって天皇制と家族制度が撤去さ

れたことによって、直接には個人の確立に結びつかず、むしろ甘

えのはんらんを起して精神的、社会的混乱の原因となっている。

又この事を歴史的に逆に延長すれば、天皇制を確立するためのし

めつけ役は武士道そのものであった。そして甘えが甘ければそれ

だけそれとバランスをとるために切腹はすご味をもつものであっ

たろう。今日においても、甘えが日本人の必需品であるならば、

武士道もまたそれに付随して品切れにしてはならないものであろ

う。

 以下次号

★コルネリオ列伝(2)

 「元海軍大佐 佐々木 親」 (久里浜教会牧師 千葉 愛爾記)
 佐々木親氏、明治24年(1891)4月29日岡山市に生る。

父は田淵熊二郎、母は佐々木??、氏はこの両親の次男である。

岡山県立師範学校付属小学校、県立岡山中学校、海軍機関学校等

を経て海軍士官となり、昭和45年(1969)10月17日横

須賀市で没した。この間第一次大戦に従軍して地中海に於て活躍、

その功によって英国皇帝から英国顕功章を、日本政府からは金鵄

勲章を授与された。その後、海軍兵学校教官、第24駆逐隊機関

長、海軍の重油タンカー知床機関長、同神威機関長、海軍機関学

校教官、巡洋艦多摩機関長として歴任し28年間日本海軍の重要

ポストを担った。昭和11年軍職を退いた後も満州国治安部、浦

賀船?株式会社等に勤務、終戦後は米軍要員として活躍し、傍ら

機会ある毎に上の恩寵の証に努め、海軍在籍時代にも数多くの部

下士官をキリストへ導いた。氏はその母教会たる岡山教会を深く

愛したのであるが、その籍を態々弱小なる久里浜教会に移して之

を援助したのみでなく、その貯蓄せる殆どの私財を払ってその会

堂の建築を完成せしめた。更に自らは久里浜教会の一員として旅

行中を除いては毎日曜の礼拝には必ず出席し、或は最寄りの教会

学校等で講演、説教を行った。これらの事は氏の一生を通じて永

年行われたことであって、その信仰と愛の実践は誠に驚くべきも

のがある。昭和42年3月には氏は恩師ベティ博士夫妻の墓参の

ため渡米し、また昭和43年6月に国際OCU大会に日本代表の一

員として出席のため英国、フランス、オランダ等を訪問した。

 昭和43年暮に至り病暫く篤くなり入院を繰返した。昭和44

年6月8日の久里浜教会に於けるヤコブ書3章13〜18節を引

照せる「理論と実行」なる説教が最後の講壇となった。

 氏の晩年特に念頭にあったのは、久里浜教会会堂の完成であっ

て、昭和44年8月17日に行われた会堂受渡式には令息立一氏

の肩にすがって重態を押して出席された。その後激痛の中の病床

にあって神と側近の人々に対する感謝の言葉を絶やしたことはな

かった。同年10月17日大樹仆るる如く78年の偉大なる生涯

を閉じた。

 アメリカ及びイギリスのOCU会誌は「聖なる人、ササキ大佐

逝く」として報じた。

 佐々木家には夫人芳枝さんの外三男五女と多数の孫が恵まれて

いる。

(付記)佐々木氏は日本のOCU(コルネリオ会)創設の功労者

であり顧問として終始熱心に教導された。

★俳 句   三上 賢一
○ 四十路過ぐ 初日へシュプール 吹かれゆく
○ 秋霜や 原爆聖堂 音もなく
○ 特車渡り終りし架橋を霜が閉ざす
○ まぎれなき 射場の炎天 終戦忌
○ ピアノ音洩る 氷柱光れり 卒業期
○ ストーブの 遠き椅子にて 聖書読む

★ 通 信
◎ 北海道地区(島松、札幌)のコルネリオ会

 松山暁腎、熊野政重、門脇安正、寺崎清、三上賢一、

水田正三の各兄から連名でお便りがありました。

 「主のみ名を讃美します。週末の午後、島松でコルネリオ会員

の「鈴蘭狩り」を行いました。わづかですが北国の香りをどうぞ」

6月9日

 お便りと共にすずらんを航空便で送って頂きました。どうも有

難うございました。主にある交わりを感謝すると共に、益々の北

海道支部の発展を祈ります。



◎ 日本キリスト教団小平教会井上淑牧師から特にコルネリオ会

のためにメッセージを頂きました。御好意に感謝すると共に、主

にあって御教会が益々発展されますよう祈ります。



◎ 今回のコルネリオ列伝は、日本キリスト教団久里浜教会、千

葉愛爾牧師の筆にて、旧コルネリオ会員、海軍大佐、佐々木新先

生の紹介をして頂きました。感謝、旧軍人キリスト者の経歴や資

料をお持ちの方はどうぞ「コルネリオ列伝」原稿お寄せ下さい。



★ 昇任、転勤、住所変更等の場合はお知らせ下さい。



★ コルネリオ誌原稿募集。論説、あかし、近況、詩歌、通信何

でも結構です。





コルネリオ会事務局

 横須賀市走水一丁目 防衛大学校

 応用物理学教室 射理研内