News Letter No.10 1973.12


★ からし種一粒ほどの信仰

「マタイ17章14〜20」
  聖書は神のみ言葉であるから我々人間が普通の状態でこれを読んでも仲々理解しがたい所が多い。この箇所でも病気を直したり、悪霊を追出したりという日常の常識を超えた事実が書いてある。しかもそれが出来ないのは信仰が足りないからだとイエスは言われる。
 それではこの信仰とは一体何であろうか。
 使徒パウロはそれに対して「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使16章31)と端的に答えられている。そしてこれが正解なのである。しかし主イエスを信ずるとはどのような事であろうか。それは、ヨハネ福音書3章16節に書いてある通り、神がこの世の救いのためにそのひとり子イエスを世の罪のあがないとして十字架につけられた事なのである。そこで一番理解に苦しむのはイエスが流した血によってどうして我々の不法が許されるのかという事ではなかろうか。多くの人達はこの事が理解出来ないのでつまづき、又は理解は出来ないままに信じていった。そして筆者もこの事の理解のために何年も苦闘したが、終にこの事を自分の知能で理解する事は不可能だという事をさ
とり、その時にこれを信ずる事が出来た。
 実は聖書は始めから終までこの事を納得させるためにそれを繰り返し繰り返し教えているのである。
 神は人の罪のあがないとして動物の血を流すことを教えられたが、人はその罪のために他人の血を流すことを実行して来た。そして旧約聖書は人の罪と流血との因果を長々と述べているのである。そして新約聖書の最後の方でヨハネ黙示録21章4節になって始めてこの世で流血が止むというのである。その間神から離れた人間が神に復帰する方法は罪なきイエスの血のあがない以外にはないというのが、結論なのである。
 こう考えて来る時、主イエスを信じなさいというみ言葉即ち血による罪のあがないという事が到底人間の理論、知識では解明出来ない事が理解出来るのではなかろうか。従ってこの事は信ずる以外には方法はなく、当初のみ言葉にある「からし種一粒ほどの信仰」というのは、この事を信ずる事だと理解される。そしてこの信仰を持つ時聖霊はすべての知識を与えて下さるのであり、(ヨハネ16章13)その時は我々は聖書を端からすらすらと理解することが出来るようになる。すなわち我々は聖書を神の言葉として理解するためには次の何れかの条件をみたされなくてはならない。その一は十字架による救いを確信すること。その二は十字架による救いを信ずること。そしてその三は十字架の血によって我々の罪があがなわれ、それによって神と直接交わることが出来るということを仮説として承認することである。
 我々がクリスチャンになった時はその二の状態ではなかろうか。何かのきっかけで信ずる
事が出来たなら、その信仰によって聖書を読むならば、聖書のみ言葉は以前とは全く違った理解を与え感動を与える。これによって我々の信仰生活は進み、み言葉は自分の日常の指針となり、より所となって来る。十字架というパイプを通して聖書のみ言葉は真実となって来るし、その生活態度はこの世に対するあかしとなることが出来る。この世と聖書、聖書とこの世というサイクルが現実となった時、それをつなぐパイプである十字架は真実となり確信となる。これがその一の状態であろう。ではその三の状態はどうか。
 この世の基準で聖書を読んだ場合どうしても理解出来ない部分が出て来る。そしてその部分を何とか霊的な意味に直したいと思ってもどうしても無理が起り結局その部分はよけて通るか削除するしか方法がない。古来神学者でも、その方法によるならば異端の道へ行かざるを得なくなった。
 聖書を正しく理解する方法は只一つしかない。それはその三の条件を仮に証認することによって即ち聖書を神の言葉として理解することである。仮説というのは科学の世界にも数多くあるので、たとえその事だけでは信ぜられない事でもその仮説のもとに多くの現象が説明できるのであれば、その仮説は真理となることが出来る。同時に、「イエスの血によって人間が清められて神との交わりの中に入れる」という仮定のもとに聖書を読むならば、み言葉は生きて我々にせまり、神は我々に直接語られることになる。そして聖書は神のみ言葉となり仮説は真実なって我々の所に戻って来る。かくしてこのサイクルは完成する。神の愛は我々人間が一人も滅びないで永遠の命を得ることを望んでおられる(ヨハネ3章16)それにもかかわらず人の罪は蓄積して文化熟する所にはうみかたまり、戦争と殺りくとがくり返され隣人への愛のために血を流し、いのちを捨てることが未だに要求されている。この世から罪がなくなるまでは我々自衛官はその血の番人として、この世に使命を持たされているのである。
 主イエスよきたりませ(黙示録22章20)

★武士道 キリスト教と自衛官(その4)

 矢田部 稔
6 欧米の制度について
 自衛官諸兄からよくされる質問に、「欧米の軍隊にはキリスト教の従軍僧(軍隊の宗教要員で、軍隊付牧師又はチャプレン)がいるとのことであるが、日本の教会では、自衛官を歓迎してくれないのではないか」とか、あるいは「キリスト教は色々と良い事を説くが、無抵抗主義では自衛官として困るのではないか。」などの素朴なものがあるが、前の質問のうちチャプレン制度については、陸上自衛隊幹部学校記事四十四年八月号に小論を発表したので、ここでは触れないことにする。しかし一言付け加えると、わが国においては明治開国以来欧米の諸制度が導入紹介されたにもかかわらず、チャプレン制度については例外で、戦争終了後はじめて駐留軍をとおしてその制度が紹介された。しかしその方面の研究は皆無である。又筆者はここ十七年間、北海道、九州を始め全国各地でキリスト教会の一員として過ごし、また近くの色々な教会にも出入りして現在の教会の様子についてある程度の認識を有するつもりであるが、一部の教会では自衛隊さんは歓迎しないという雰囲気があることは否定出来ない。しかし国立大学が国家公務員である自衛官の入学を拒否する時勢であってみれば、教会のこの態度もあながち責められないかも知れない。しかしわれわり自衛隊員や警察の機動隊員を救いに縁のない異邦人と見たり、それらに対して福音伝道を拒否することは日本の教会にとってむしろ損失となるのではなかろうか。或いは被害者意識を振りまわしたり、加害者ぶってみたり、変に力んだ政治的ポーズをとるこ
とは福音的教会にとって決してふさわしい事ではない。重要なことは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい」という教会の真の主人であるイエスキリストの言葉を単純に聞くことであり、この際我々は礼拝の作法に馴れた人、賛美歌を上手に歌う人、キリスト教に関するあれこれの知識を持った人達に対して何の遠慮も必要ないのである。彼等も罪人に過ぎない。
 次に第二の質問について、これは戦争に対する基本的態度の問題である。読者は少なからざる非戦主義者がキリスト教を根拠としていることを御承知と思う。そこでまづ兵役拒否の問題について簡単に考察しよう。
 西独憲法につぎのような部分がある。「何人も伝統的、一般的にすべての者に平等に課せられる公共の役務給付義務の範囲内の場合をのぞき、一定の労働を強制されてはならない。良心上の理由にもとづいて武器をもってする戦争の役務を拒否したものは、これに代役に従事する義務を負わせることができる。代役の期間は兵役の期間をこえてはならない。
 詳細は法律でこれを定める。法律は良心の決定の自由を侵害してはならず、かつ軍隊となんら関係のない代役の可能性をも規定しなければならない」これによると申告者は直接的な戦闘任務には服さず、たとえば衛生兵のような非戦闘軍務につくか、あるいは軍務ではなく、精神病院勤務のような代替業務につくことを認めたものである。申告者は法律によって彼の過去及び現在について詳細な調査がなされ、彼の良心上の理由とはまじめなものであり、怠惰や卑怯からではないことが確認されて後、これらの代役が認められるのである。このような制度は、米、英、仏をはじめ主として西欧諸国で行われており、東独をのぞいて共産主義国では行われていないようである。 兵役拒否がはじめて制度化したのは英国が1916年、米国が1917年で共に両国がはじめて徴兵制を布いた時にあたる。これは両国とも国家が強制的に青年を徴兵する場合に特殊事情による例外を認めたことになる。しかし、この例外が認められるからといってすべての青年が拒否の申請を出したらどうなるだろう。兵役拒否にはそれ相応の理由がなければならないといっても理由はどうにでもつくであろうし、それをいちいち調査していたのでは大変な労力である。それにもかかわらず英、米等でこの制度を作ったのは、拒否の申請が殺到しないであろうとの見通しがあったからではなかろうか。とも角徴兵制がなくとも多くの青年が、女性のあこがれの的である軍人を志願することであり、徴兵されてまで拒否するような者はそういるはずがない、という安心感がこの制度を成立させたのではなかろうか。事実兵役拒否の申請はそんなに多くはなかったと報告されている。さて兵役拒否の理由としてほとんどの国では「自分は殺されても他人は殺さない」という宗教的信念に限定されている。
キリスト教のある教派では「悪をもって悪に報いず、剣をとる者は剣に亡ぶが故に右の頬をうたれれば左をも・・・・」という風に徹底した信仰を持つものがある。しかし聖書に従うということは決して特定な聖句だけを取出して金言、格言とすることではなく、旧新約聖書全体を通して、とらわれない自由な心をもって正しく理解し、その真の導きに従うということであってみれば、そのような少数派についてそれ程心配する必要はないということであろう。(以下次号)

★ 主にある交わり

   今井健次(防大)
 去る日曜日教会へ行ったら全国の教会の信徒の方から、教会お よび牧師あてに二三十通の葉書と封書が届いているのにおどろい た。 その通信のそれぞれには、そこの教会員の寄せ書きがあっ たり、激励文があったり、様子を聞いて来た文があったりでまち まちだが、要するに貴教会のために祈っておりますという事では 一致しているのであった。その文によると日本キリスト教団機関 誌「信徒の友」の「日毎の糧」という所に毎日毎日の聖句を解説 している所があり、その欄に毎日全国の教会名を順番に書いてあ り、各読者はそこに書かれた教会のためにその日祈ることになっ ているらしく、その日丁度我が教会の名がそこに書いてあったと いうわけであった。  日常我々はとかく自分達の教会だけを意識しがちであるが、こ のように多くの教会が文字通り心を合せて我々の為に祈っていて 下さった事を思う時、今更のように主にある兄弟姉妹が同じ聖霊 のお導きのもとにある事を感ずると共に祈りというものが如何に 普遍的なものであり、キリストのからだにつながるものであるか を知ることが出来る。我々自衛隊にある信者は、兎角転勤が多く 一箇所の教会に永く連ならない事が多い。しかし主から同じ防衛 の使命を頂いて全国に散っているわけだから、同じ教会に長く属 することが困難でも、全国の教会が主にあって一つであるなら我 々はお互に距離は離れていても同じ心で同じ祈りの中に居ること が出来るのではなかろうか。年に一度でも互に祈り合う事により 、通信し合う事により新しい使命観を持って日々を過ごすことが 出来るわけである。通信は即ち祈りであり、挨拶は即ち主にある 一致ではなかろうか。 我々が主の戦に日々を過ごす時、聖霊は 勿論我々を助け守っては下さいますが直接目に見えるものではや はり同労者の祈りと励ましにも益して我々を力づけてくれるもの はない。 束になった便りを読みながら各教会から送られて来た 葉書の上で聖霊が一枚一枚異なった形で躍動しているのを感じた 次第である。

★ 9月3日、米国OCU事務局長P. R. Petition氏が防衛大学校来訪、防大幹事中村定臣陸将以下でお迎えした。衣笠病院長の武田貴美元陸将、および千葉愛爾牧師が同道された。又通信学校長塚本勝一陸将がPetitijohn氏と旧交をあたためるためわざわざ防大においでになったのは感謝であった。防大の会食には聖書研究会の学生8名も加わり大会議室で主にある交わりの一時を持つことが出来た。 両国のOCUの上に祝福あれ、防大側からは今村教授、今井教授も同席した。


★ 通信
 ○ 網島敏夫兄(百里基地隊)からつぎのようなお便りがありました。
 主を崇めながら 山や野も紅葉の色着きがしてまいりました。コルネリオ会の皆様も一段と福音の足音を高くなさっておられることと思います。さて、私は、茨城県東茨城郡小川町百里170にあります百里基地に勤務しております一隊員ですが、百里基地より約30Km「北」に位置するところの水戸市にあります、水戸バプテスト教会に属しますクリスチャンです。
 実は、昨年の暮土浦の朝岡茂牧師宅へ伺いましたところ「自衛隊内に『キリスト者自衛官の会』があると聞き」どんな会であろうかといつも思っていました。そこでいつかはお尋ねしようと思っていたところ、今日、本の間から十字架印のついた印刷物を見つけました。よく見ますと、「コルネリオ会」のものでした。そこでさっそく手紙を致したわけです。私は、バプテスト教会の者ですが、キリストイエスに従う者として、入会できるものでしょうか。又現在の会の運営、メンバー、活動の概要をお知らせ下さいますれば幸いです。どうか時間的余裕はなくお忙しいことと推察致しますが、一報下さいます様お願い申し上げます。 主の恵みが当会にも全世界にも豊にありますように、キリスト・イエスのみ名によってこの祈をおささげいたします。
 1973.9.30(日曜日)
○ 滝原博兄(府中防指群本部)からお便りがあり、杉並長老教会に転会されて御一家五人共お元気の由、なお四月から、奥様が日本基督神学校特別学生として御入学との事、ご一家のため お祈りください。

○ 池の上キリスト教会、牧師山根可弐先生からつぎのお便りを頂きました。感謝。「主をさんび申上ます。お心にかけてコルネリオ会よりのパンフレット有難く御礼申上ます。この終末を思わせられるこの時代に、いよいよ祈って主の戦いにお従いして参らねばと、日々主に押出されている心地です。コルネリオ会がいよいよ祝されて、一人も多くの救霊の御業を拝さして頂き渡く、お祈りいたしております。僕(しもべ)の上にもお祈り頂き厚くお礼申上げます。何卒御健勝を祈り上げます。」

○ 東京キリスト教短期大学、学長代理、丹波喬先生からつぎのお便りを頂きました。感謝。「聖名をさんび致します。コルネリオ会の機関紙をお送り下さいましてありがとうございます。皆様の証詞を読ませていただいて励まされております。終末をおもわされるこの時代にあって、キリスト者と国家の問題に日々取り組んでおられる皆様の切実なる態度を垣間見ることが出来て、心のひきしまる思いがします。主にある兄弟の皆様のために祈らせていただきます。」

○ 日本キリスト教団御殿場教会牧師、岡本明先生からつぎのお便りを頂きました。感謝。 
「コルネリオをお送り頂き感謝でございます。御会が益々主の導きのうちに力強い歩みがなされますように祈ります。私達の教会にも自衛官が教会生活をしています。
 私の願いを申せば転任された時、御紹介を頂ければお訪ねしたいと考えます。富士学校、滝ヶ原、板妻、駒門に転任された方は御殿場教会に是非おいで頂きたく存じます。共々に手をとり合って信仰生活に励みたいと存じます。主の御祝福を祈ります。」

★ 転 任
○ 安永稔海将が十二月一日付横須賀地方総監に栄転されました。主にあって御活躍を祈ります。

○ 森田忠信一空尉は幹部学校指揮幕僚課程を了え、航空資料隊勤務として目下日仏学院でフランス語研修とのことです。

★ 昇任、転勤、住所変更等の場合はお知らせ下さい。

★ コルネリオ誌原稿募集。論説、あかし、近況、詩歌、通信何でも結構です。

◎ クリスマスおよび新年お目出度うございます。主にあって益々御活躍の程祈ります。

コルネリオ会事務局
 横須賀市走水一丁目 防衛大学校
 応用物理学教室 射理研内