News Letter No.11 1974年3月 

※上なる権威に従いなさい
「ローマ13章1〜5」
 「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。」このみ言葉は世のすべての人達に対して与えられているが、我々自衛官にとっては特に重要なみ言葉ではなかろうか。しかし現代の民主主義の世ではこのみ言葉はあまり重視せられない場合が多い。いくら上なる権威に従えと言われても、若し上級者の意見が間違っていた場合にはどうなのか、上官から虐殺の命令が出たら、それでも従うのか、とか、これに対して聖書は何と答えているであろう。*Iコリント15章36節にはそのような人に対して先ず「おろかな人である」とあり、58節には「だから愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないとあなたがたは知っているからである」となっている。
 主にあった行動をする時にはそのような誤りは行われず、従ってこれは問題にはならないと言うことであろう。防衛の任務は平時にはあまり問題は起こらないが、非常の場合に色々な厄介な事が起こって来るわけであり、それらの問題について一々時間をかけて検討する余裕のない場合が多い。従って平時から種々の事態に対して予め予想を立て、訓練をすることによって臨機の処置が出来るようにしておくわけであり、実際の運営に当たっては隊長の判断にまかせられる場合が多いのである。頭書のみ言葉「存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」とはその事を示しているのであろう。
 二三年前に筆者が防大研究科のある幹部学生の事について防大幹事である将官に相談に行った事がある。その学生について色々優秀な点を説明して推薦を頼んだのであるが、最後にその将官は「その学生は先生の言う事を良く聞きますか」と言われるので、私は半ば冗談に「私の言う事はあまり良く聞かないですね」と言った所、その温厚な将官は声をひそめて、「それはいけません」と言われた。私はその時思わずいきをのむ思いがしたのである。私自身が批判されているというよりはむしろ「この将官こそ本当の軍人である」と思ったのである。このような武人であってこそ我が自衛隊を背負って立つことが出来るのだと思わせられた。自衛官として必要な第一の資質は上官に従うこと即ち神に従うことではなかろうか。(*注 このみ言葉は人によって種々の受け取り方があると思われる。)


※ 雑 感 大橋忠造(12師司令部)
 1973年という年は自衛隊の中でも、特殊の部門である法務という私の職域にも種々の影響を及ぼした年であった。
 住民登録拒否問題もその一つであった。年当初、問題となったこれは、那覇、立川の革新市長が自衛隊移駐反対、基地撤去の手段として、自衛官の住民登録拒否を行ったもので、皆様も良く御記憶のことと思う。結果は、世論の反対、検察当局からは公務員職権濫用罪で調査を受けるなどして自ら拒否を取り消さざるを得ない羽目に陥り解決したが、師団管内から、受拒否者が出るに及び、命を受け上級司令部と連絡し、或いは法務幕僚として、法的に革新市長側の拒否の根拠とする法解釈が法の精神を逸脱した曲解であり、違法性すら有することを教育し、資料として配布するなどしたことを覚えている。しかしすべてが解決した現在でも、何かしら釈然としないものを感じる。その原因の一部に、登録拒否の大立物であった阿部行?立川市長が、かつて私が学生時代に属していた大学YMCAの指導教師であり、その指導者として仰いだ人が、明らかに違法であり、拒否の結果、人権までも侵す行為に出たことに対する、悲しみと憤りがあり、さらには基督者とし何かなすべき余地があったのではないかの反省が、含まれていると思うのである。
 自衛隊員である我々も協会内で差別されることはない。むしろ、反自衛隊的言動を我々に向けることを避ける傾向にあり、我々もまた敢えてこの風潮に逆らうこともしなかった。だが基督教界は一般的に平和団体と目されており、今後、如何なる形で自衛隊を反平和的な存在と見ないとも限らないであろう。その時の我々の立場は如何にあるべきか、現在の平和が続き、一見、軍事力を備えることが無駄に思えるとき、生活、福祉に目が向けられる時、自衛隊を取り巻く情勢は厳しくならざるを得ないはずである。その全般的風潮は、その中に存在する各種団体、結社にも必ず波及することを思うと、矢張りなおざりにするべき問題でないと思えてくるのである。
 殉職自衛官合祀拒否訴訟、この訴訟は係争中の幾つかのいわるゆ自衛隊裁判の一つである。事件は殉職した岩手地連の中谷二尉の未亡人である康子さんが、出身地山口地連で殉職隊員を護国神社に合祀することを企画し、隊友会山口支部とともに原告たる未亡人に合祀の了解を求めたところ、「キリスト教信者であり、教会に祭ってあり、他の宗教で祭られる必要はない」と拒絶したことに端を発する。隊友会等は拒絶にもかかわらず独自に手続きを進め、前記神社に合祀したところ、その合祀取消を求めて訴訟が提起されたものである。法律的にも争点があるが、特にこの事件は私のみならず皆様にとっても身近と思う。仮定の問題としても諸官のうち誰かが殉職された場合、このような護国神社合祀の話しが持ち込まれないとは限らないであろう。私個人としてみれば、殉職者と同一連帯で殉職した顔見知りであり、さらには方面総監部法務課員であって損害賠償金、公務公害補償金の問題を検討し、殉職者の実父が、補償金を全部受領するとの噂があったため乳児を抱えた未亡人に全額が渡るように努力したことなどがあり因縁があるからである。この問題の発端に、自衛隊、或いは隊友会側に、粗さがあり、個人の信仰や、神であれ、仏であれ、一向に意を用いない宗教意識の低さ、或いは合祀にばかり目を奪われ、相手方未亡人に関しての十分な情報を得ないまま実施した業務の執行態度などが反省されよう。
 業務の実施における考え方、態度はそれだけで我々の参考となるが、その他、信者として、自衛官である家庭人としても教訓と、考えるべき点が求められると思う。本件訴訟は既に大きな話題となっている。そして自衛隊が相手方というが故に「遺族の心情をかえり見ず、軍国主義的精神教育のため、自衛隊の自己目的に利用し、軍国主義を推進する本質をばくろした違憲な存在である」との主張に発展するのである。基督教界の動きは、NCC諸国問題特別委員会、日基団社会委員会が未亡人を支持しており、未亡人の所属する山口親愛教会内(林健二牧師)に「中谷康子さんを支える会」が設けられている。なお殉職者は無宗教であったことを付記し、皆様の参考に供し、出来うればご意見をも伺いたいと思う。

※あかし  山中 朋二朗(元海軍中将)
 会員各位の主にあって御健闘を祝します。小生22歳東京富士見町植村正久牧師の教会で海軍生徒の軍服短剣姿で受洗、30歳同牧師の司式、大尉の海軍正装で結婚。当時でも部内にはヤソ嫌いは沢山いましたが、教会の人たちは何の疑いも抱かず皆で祝福してくれました。処が今の皆さんはどうでしょう。私は唯々  「恐れるな、小さき群よ御国を下さる事はあなたがたの父のみこころなのであり」(ルカ12−32) の聖言をお送りするより他に道を知りません。道を覚えて65年「すべての事は働いて益となり」損をしたことは一つもありません。終戦の翌年復員帰宅。(ルカ15章)の放蕩息子以上の罪の身を既に亡き父母の教会は喜んで迎えて下さいました。婚後21年の家内が留守番の間に保育教育を受けた事が示唆となり昭和24年家を開放して幼稚園を始めて今日迄25年1,200余の卒園児とその家庭はその温情を「押し入れ、採り入れ溢るるまでにして」(ルカ6−38)くれます。
 内村鑑三、植村正久、塚本虎二の三恩師は既に召されて世を去られ、同信の諸先輩も友も次々と召されて行き、この世に残された者の淋しい日を過ごしておりますが「もはや我、生くるに非ず、キリストわれにありて生くるなり」であります。
 油で戦に負けた日本が、油で一儲けしましたが、又その油で試練を受ける事になりました。併し日本人が持ち前の勤労の精神を失わない限り必ず生き残ると信じ、幼い園児に自主自立独行の根性を叩き込む事につとめております。
 12月1日横須賀地方総監となられた安永海将は私の機校(舞鶴)教頭時代に卒業の機47期生、恰もクラスの多数は戦死、思えば感慨無量です。 この上とも コルネリオ会教友各位の主にあって御健闘を祈ります。
 抽詠
 ○丸腰で行ける世なれば日本も何を好みて刀もとうぞ
 ○戦争の絶えしことなき地球上日本は日本人で衛の他なし 

※コンピュータと信仰  松山 暁賢(島松駐屯地)
 本年1月から東京都小平市にある陸上自衛隊業務学校に入校することになり、現在、学校の隣にある小平教会の礼拝にも出席する機会が与えられ感謝いたしております。ある日礼拝の後、この教会の長老である今井兄(防大)及び越中兄(農林省農薬検査所コンピュータ主任)それに私の三人で「コンピュータと人間、信仰生活、聖霊の働き等」について討論したことがある。結局、議論が高度化してしまい結論は出なかったが”神と人間の関係”は”人間とコンピュータの関係”によく似ているということにおちついた。
 そこで私もコンピュータと人間を比較し、信仰について考えて見たい。

1. コンピュータのからだ
(1)コンピュータには頭脳があり、ものを記憶し、判断し、計算することができる。
(2)大きな体があり内蔵等は精密にできており、普通あまり病気はしないが、常に健康管理のためメーカー側に専属の医者がいて時々往診にくる。
(3)耳目や手があり、いろいろの情報を見たり、聞いたり、書いたりするほか、頭脳に記憶しきれないときはノートやテープレコーダに記憶することもできる。
(4)コンピュータはIBMの大型機からミニコンに至るまで周辺機器の組み合わせにより、人間のようにそれぞれの能力は千差万別である。  以上の能力は人間の何十倍から何万倍という優秀なものであるが、これらはハードウエアといって五体満足なだけでなんの目的も持たないで日々生活している人間によく似ている。

2. コンピュータの働き
(1)コンピュータは自分1人では何もすることができない。人間はコンピュータの能力を如何に使ったらよいかということを考えて、仕事の手順を明確にする。これを「システム設計」という。これは非常に難しい問題で、システム設計が完全かどうかは結果を見なければ判らない場合も多い。しかし、根本的には「正しいシステム」と「正しくないシステム」とに大別することができる。
(2)システム設計されたもの(システム設計書)にもとづいてコンピュータに仕事をさせるための命令書(「プログラム」という)を書く。このプログラムがシステム設計書通りに正しく働くかどうかを確かめることをデバッグといい、デバッグ作業を終わってようやくコンピュータが働くためのプログラムが完成するわけである。コンピュータはこのプログラムによっていろいろの仕事をすることになるが、この仕事は人間にとって役に立つものとなる。この場合のシステム設計書は”正しい”ものであり、人間が神なら聖霊みたいなものであろう。
 ところが、システム設計書にも”正しくない”ものが非常に多い。しかも”正しくない”ということが判らないままプログラムが作られてしまう場合もある。この場合たとえプログラムが正しくとも、コンピュータはプログラム通り働くので、そのなした仕事は”常に誤り”であり、当然人間には役に立たないことになる。このときのシステム設計書は例えば人間を神としたら悪霊の仕業と見なされるであろう。

3.被創造物は創造主に喜ばれる働きをせよ。
(1)人間とコンピュータの違いは、いろいろあるが、特に、人間は神の被創造物であるのに対して、コンピュータは人間の被創造物である。
(2)人間は神の御設計書にもとづいて聖霊により、生かされているのに対し、コンピュータは人間の計画にもとづいてシステム設計書により生きている、といえよう。そこで人間が神であり、コンピュータが人間だとした場合、前項で述べたごとく、正しいシステム設計書は聖霊みたいなものであり、それにもとづくコンピュータの働きは製作主である人間に喜ばれるものである。
 神は人間が神のために生きるよう創造されたにも拘わらず、正しくないシステム設計書を正しいと信じこんで生きている人間も多く、いや非常に多いことである。この場合のコンピュータの働きというものは、創造主のためにならないものであり、創造主は喜べないことになる。

4.信仰に生きること
 私たちの信仰生活はコンピュータのように単純なものではないが、創造主と被創造物の関係は真理である。創造主である神に喜ばれる生き方が”信仰に生きる”ことであることを信じ、いままでに何回神に喜ばれたかを数える愚かな僕でありますが、小平教会で、コルネリオ会の先輩である諸先生にお会いする度に、自衛官として、コルネリオのように生きることが神に喜ばれることであり”信仰に生きる”ことであるということを教えられている。


※通 信
○綱島敏光兄(百里基地)より
 聖名讃美
 早速に御返事お知らせ下さいましたこと感謝いたしております。
 コルネリオ会の目ざすところを知ることができました。国際的なものでもあり、又キリストを救い主と信じる者はだれでもとあり、まったくキリストを中心とした交わりであることを知り、たのもしくもうれしくも思いました。外国では将校ばかりと聞き、少々気がひけますが、どうか会員に加えて下さいますようお願い申し上げます。
 お手紙にありましたように、真の防衛のあり方は、主にあって正しい方法でなければ、達成されるものではないと、私も信じます。神を知り義に忠実でなければならぬと思いますから、キリスト・イエスに従って一人一人の隊員が正しく立つ者とならなければならないと思います。
 そのためには、長い時間を要しますが、キリスト・イエスの真の愛に気付き、寛容と忍耐と希望とそして、すべての物に、事に常に感謝の気持ちを持ちつづけられる人に、隊の内外を問わず、一人でも多くの人々に伝道していかなければならぬと思います。
 神により真に生かされたものと、すべての人が気付き、信じた時に、真の平和が保たれると信じます。
 まず私は聖書に明るくなる努力をしています。生活から聖書に聞き、聖書の内容を知り生活に生かして行く生き方をなして行きたいと、毎日努力しております。
 現在水戸バプテスト教会の会員で、聖日はほとんどの時間教会で過ごしています。  今後、機会あるごとに手紙致したいと思っています。「キリスト・イエスの良き兵卒としてわたくしと苦しみを共にしてほしい」テモテへの第2の手紙第2章3節
 コルネリオ会が主にあって正しい活動の場となり、多くの隊員を募ることが(伝道)できますように。
 主、イエス・キリストの名によりお祈り申し上げます。

○ 下桑谷浩兄(中央病院)より
 輝かしい新春を心からお祝い申し上げます。
 早速でございますが、小生コルネリオ会入会に際しまして、又、機関誌の発送まで多大のご配慮をいただき、ご厚情の程伏してお礼申し上げます。  お聞きいたしますと、コルネリオ会の事務を先生お一人で労されておるとのこと誠に頭の下がる思いです。近くにあれば手助けの一つもできるのにと一人申し訳なくおもっています。
 実は申し込みばかりいそいで会費を忘れておりました。同封いたしましたので、ご受納いただければ幸いです。
 それから年一度開かれる会合はいつごろでしょうか。その節はお知らせいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
 まずは用件のみにて失礼いたします。
 貴会の上に併せてお働きの上に主の恵みますます豊かならんことをお祈り申し上げます。