コルネリオ会ニュースレターNo.12(1974年7月) 

※ 恵みと律法 「エペソII章8〜10」
 「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。」と書いてある。ここで言う救いとはこの世と天にある永遠の国とを結ぶ特別指定券のようなものであるから、これは地上の利権のように自分の希望や意志によって買い求めることは出来ない。神の側から選び出されて一方的に与えられるものであるという意味であろう。これが恵みであり、その時その人は信仰という状態の中にあるというのである。信仰とは「望んである事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11ー1)

 それではその事がらとか事実とかは何をさすのであろう。それは神から啓示されて我々が臨みみているもの、客観的にはその特別指定券を持っている人が日頃抱いている事であろう。世々の聖徒達は信仰告白として代々これを受け継いできた。この内容は勿論聖書から出て来ており、それは使徒の時代から世々受け継がれ三世紀頃にはすでに一定の形にまとめられて来たもので、その代表が使徒信条(讃美歌集466頁)である。我々主にある者はこの信仰を持っているので、日常の生活に於いてもそれを基準として行動するし、その内容が真実であることを日々教えられる。この実感を説明発表することが「あかし」である。

 しかしその内容は之を完全に理解することは出来ないし、又合理的に証明することも出来ないであろう。なぜなら若しそれが出来るならばこれはもはや信仰ではなく、理性による事実になってしまうからである。このように我々が信仰によって進む時我々の行動は自然その信仰の元をなす聖書にもどる事となり、信仰が厚ければ厚い程その基準を聖書におく事になる。その時「神はわたしたちが良い行いをして日を過ごすようにとあらかじめ備えて下さったのである」というみ言葉が実現する。聖書には多くの律法があり、その代表はモーセの十戒(出エジプト20章1〜17)であり、イエスキリストの山上の垂訓(マタイ−5章〜7章)はこれを更に具体的に説明したものと言える。しかしこれらの律法は信仰によって義とされるために我々をキリストのもとに連れて行く養育掛となった(ガラテヤ3ー24)と書いてある。すなわち聖書は神のご意志とご性格をあかししているが、我々が救われるのはこれに従うことによるのではなく、この崇高な御目的に完全に従うことが不可能である事を悟った時(罪を悟った時)に神の恵みにより信仰によって神から許され、その聖霊の働きによって全く新しい者と変えられ、その時この世に処する新しい力が与えられるというのである。その時に神の愛の中に入る事が出来、我々の行動は神の道に従うものとなっている。それがクリスチャンの生活であり、その生活はみ霊の実(ガラテヤ5ー22)となって天国に通するという事なのである。これが頭書のみ言葉「わたしたちは神の作品であって良い行いをするように、キリストイエスにあって造られたのである」の意味であろう。

 さて我々が主から派遣されてこの世を見渡す時、そこには多くの天からの恵みと同時にサタンによって喰い荒らされた、又荒らされつつある諸々の現象に直面することになる。しかもなおサタンは第一番に主の民である我々クリスチャンに向かって攻撃の矢を向け我々を先ず罪の中におとし入れようとする。我々は社会の秩序の中の一員として先ずこの敵と戦わなければならない。そしてその敵は我々の外から攻撃して来るよりは寧ろ心の中にあるのだ。すなわち不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、あよびそのたくいである。(ガラテヤ5−19〜21)とあり、先ず之を認識しこのような罪におち入った時には、直ちに之を悔い改めることが必要であろう。このように悔い改める意志と力もまた恵みによって上から与えられているのである。そして又、そのために祈り求める事が必要である。

 次には我々が何の為にこのサタンの跳梁する世に置かれてあるのかを考えてみよう。若し我々が罪を犯さないで天国に入る事だけが目的ならば、主は今日にもその人を地上から取り去る事がお出来になるし、以後罪から離れられるのだからその方が有益であろう。だから只この世にあるという事だけで終わるならば月給分だけしか働かない会社員のようなもので、会社に取っては何らの益がない。我々がクリスチャンとしてこの世にあるのは徒食するためではなく、「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい、主にあっては、あなたの労苦がむだになることはないと、あなたは知っているからである」(Iコリ15−58)とあるような人生を全うすることに他ならない。以上



※ キリスト者士官:その倫理的宗教的指導精神
 米国OCU会長 W.K.ハリソン中将(防大3年 南口誠直 訳)

 OCUの会員には2つの市民権がある。1つは神の王国の、もう1つは我々の社会の。最初の市民権により、神が差し伸べて下さる救済の証人たるキリストの使いとして、我々はこの社会にいる。もう1つの市民権により、我々は自分の統率する部隊の管理と戦闘能力に関して責任を負う。これらの責任は相互に矛盾したものではない。キリスト者兵士は神の栄光を称える儀礼により、忠実に自分の国を守るべきである。(ロマ13−1〜7、ペテロ2−13〜17)もし戦闘が存在するならば、我々が神の特別の命令に従わないことを予期したときのみである。私の44年間の経験の中で決して聖書から学んだことの反対の行動を求めたり口にしたりしたことはなかった。時々命令の賢明さを疑うことがあったが部下に対して倫理や宗教上の義務の背反を告げることはできなかった。

 自己の部隊を指揮する際、士官は自分の最高を尽くさなければならない。これは戦闘訓練に於いて最高のものを望む時要求される。主たる要因の1つは義務感と部下への責任である。そして団結心と部隊への忠誠である。さらに人間としての個々の倫理である。嘘つきや詐欺師は戦闘の際信頼され得ないのは明白である。部隊内の臆病者は人体に於ける癌のようなものである。アルコール中毒者は賢明な決断力をもって働く能力が弱いか破壊されている。これはまた部隊の為に働かなければならない者との喧嘩や口論を招く。性の不倫はその人自身の深刻な弊害をもたらし我々の仕える国内の人々との良い連帯を継続させようとする努力の失敗を引き起こす。残忍性は不必要、有害で、戦闘力の足手まといである。少し考えてみれば隊員による不倫な行いが自隊の戦闘実兵力の足手まとい以外の何ものでもないことがわかるであろう。

 キリスト者士官はこの問題に対処する為の最高の素養を身につけるべきである。その人の処世訓は聖書により定着されている。残念なことには殆どの人々が聖書を拒絶したり、それに対して無知であったりする。キリストによる新しい人生を得ずして、そういった人々はキリストが私たちをそこからお守り下さっている罪の王国にのみ住まなければならない。我々が救われぬ人々がキリスト者の行動規範に従おうと欲したり試みたりするなどということを期待してはならない。しかもその上、その人々に宗教を強いることはできない。法律やいろいろな形の圧力のも関わらず、その人の宗教上の忠誠はその人自身のものであるので、人々に無理強いできるものの殆どは人間の生活の内面に意味を持たない外見の取り繕いにすぎないのである。

 それではOCUの会員は自分の部隊の倫理的効果に関係することでいったいどのようなことをすることができるのであろうか。確かに彼らの訓練の1つの要素は彼らの人生、隊内の他の隊員の人生、部隊と民間との良い連帯を継続させようとする努力の能力などに於いて不倫の結果を隊員に知らせるであろう。その人自身の行いによりOCUの会員は職業上の手腕に於けると同じように個人的な倫理に於いて規範を示す。彼はキリストが自分たちの為にそして神の栄光を与えて下さる為に何をなされたかを語る機会を常につかむことであろう。彼の行いが誠実な信念の結果であることは全て明白であろう。

 キリストにより救われ、永遠に神の子となった人はキリストの使者であり自分の部隊内の救われていない人々やその他の人々の証人である。このことはその人がそうあろうと思うと否とに関わらずそうあるのである。唯一の問いは彼がどのような証人であるか、善か悪かである。キリストの信者は誰もこの責任をのがれることはできない。(マタイ28−18〜20、使徒I−8、エペテロ3−15)全ての良き士官は、OCUの会員であるなしに関わらず自分の仕事を良くし、有力、忠実、勇敢な常勝の部隊を持ちたいと思っている。彼は自分の士官の推賞を良いものと思っている。それよりもさらに、OCUの会員は全能の神の是認をいかに願望していることであろう。

 残念なことには、全てのキリスト者はしばしば人々の証人となることが難しいことを知る。救われぬ人々には信ずる故、愚であるべきである。我々は神の信者の長である使徒パウロも我々はキリストのために愚者であると言っている。

 この困難さを解決するものは、我々が事柄の重要性にどう有光順序をつけるかという事にかかっている。OCUの会員は誰もこの世のものが神のものより重要であり得ると信じてはいない。問題は神は目には見えないということ、および世の力はあらゆる方向から我々に圧力を掛けて来るので、それに耐えられるかということである。聖書では我々は見えるものによらないで、信仰によって歩いているのであると書いてあるが、しかし自然の傾向としては信仰によるよりも見えるものにより歩きがちなのである。(IIコリ5−7)

 我々は見えるものにより歩いているのではあるが、もし第一に神のものをあげるとしたら、我々はまず、キリストの代理人であるということを常に知っている。そこで我々は我々仲間の殆どは職場に於いて物理的な死に直面しているのみでなく、一方常に宗教上の死と永遠の地獄への途上にある。このことについて心配になりませんか。OCUの会員はどのに居ようとも、人々をお救い下さることを伝える伝令である。我々の方法は侵略的に押し付けたり、彼等を敵に回したりすることではなく、その人たちを引き寄せ、神に引き付けることである。そこでまずはじめに主が私共をお救い下さることを強調しなければならない。そこで我々の持っている希望を、良い知らせであるという信頼のうちに語り、告げる機会を捜さなければならない。都合の悪い結果を恐れてはならない。なぜなら、キリストの為に苦しむことは、悪魔や亡びの中に入れられるよりよいからである。

 私にとってこれら全ての解釈は我々自身の人生にキリストの卓越をもたらすことであるように思われる。(コロサイ1−18)我々が真に新生し、主の中にあり主は我々の中にあり(ヨハネ14−20)、主は我々を決して見捨てないで下さるばかりか主の是認は我々がかち得ることのできる最良のものであるということを確信するとき、我々はあらゆる問題や危険に直面しても主への帰結を望みながら全信頼とともに行動することができるのである。そしていつの日か主は言われることであろう。「良き忠実な僕よ。神の喜びに入りなさい。」

(以上は、米OCU機関誌”COMMAND”から転載させていただきました。) 



※コルネリオ列伝(3)
「元海軍大佐 実吉敏郎先生」
 武田 貴美(衣笠病院長・元陸将)

 日本OCU顧問の実吉敏郎先生は本年4月4日に召天された。1月の中頃第2回の脳血栓症を発病され、直ちに入院され爾来50日間加療されたが病勢快復を見ず遂に息をひきとられました。

 先生は1886年誕生、旧陸軍軍医総監軍中将実吉医学博士の次男である。父君は明治天皇陛下の侍医もつとめられた有名な人であった。先生は海軍兵学校を卒業されて海軍士官として勤務されたが、特に1921年より1924年まで海軍駐在武官としてロンドンに勤務された。その時イギリスOCUの聖書研究会に導かれた。そこで多くの良いクリスチャン将校の友との交わりを得た。因みに1968年私共と佐々木先生とがイギリスのスワニックで開催された国際OCU大会で実吉先生を知っている老人の方にお目にかかり感慨を深くした。先生は1924年帰国後長崎に於いて受洗されクリスチャンとなられた。その後先生は第二次大戦以前より日本の陸海軍将校の中で唯一人のイギリスOCUの名誉会員であった。

 大戦中先生は召集を受けて従軍したが、アメリカ海軍潜水艦の攻撃を受けその乗艦は沈没したが奇跡的に助かった。又従軍中特記すべきことは上海に於いてユダヤ人救済連盟のために当時の上海海軍武官府特別調査部長として1カ月勤務し、大きな功績をあげられ素晴らしい感謝記念の銀の器が先生の応接間に飾られていた。戦争終結とともに早々イギリスOCUより親愛の情をこめた手紙と共に機関誌Practical Christianityを送られ、ずっと引き続きメンバーとして遇されていた。この先生によって日本の自衛隊の中にOCUが生まれることになる最大の動機が与えられた事を想い感激新たなるものがある。以後十数年間自衛隊OCUの顧問として御指導下さった事は感謝にたえない。先生には三人の娘さんがおられたが、夫々立派な家庭を恵まれた。夫人英子さんは文豪志賀直哉氏の令妹であるが、御健康で従前通り鎌倉にお住まいである。



※ 武士道、キリスト教と自衛官(5)
  矢田部 稔(10特連本部)

7. 日本人の戦争観について
 以上の問題を取り扱うのに、先ずその背景となる現代日本人あるいは日本の教会人の戦争に関する考え方について考えてみよう。  日本本土に住む人々は長い歴史を通して、外国軍にローラーをかけられたことも、集団で拉致されたことも、また異民族に永続支配されたこともない。その上第二次大戦後の米国の対日処理は、ドイツが第一次大戦のあとフランスから受けたもの、又は第二次大戦のあとにソ連から受けたものに比較すると問題にならない程寛大であった。又敗戦のあと武器を持っていた戦前よりはるかに豊かな物質的繁栄を得ている昨今では、「戦争に負けることは良いことだ」くらいの浅薄な考えも出て来ている。つまり敗戦の経験不足から来る反応であるが、しかし兎に角この敗戦によって我々日本人に、戦争の罪悪感とか、戦争の恐怖、戦争の空しさを与え、悲惨な状況に至らしめた責任者の追求、戦争を防ぎ平和を維持させる社会機構の研究等に対する関心を子供の頃からつぎ込んで、戦争に対する嫌悪とこれを防ぐための情熱を植えつけたことは間違いない。そして米国の占領政策の結晶ともいうべき憲法を最高のものとして受け取り、何物かを絶対守れと叫びつつも、その守る手段はすべて否定するという、フィーリングで勝負するという日本人特有の性格に共鳴しながら巨大なエネルギーを生み出し続けているのである。ある著者の言を借りれば(鯖田氏著・戦争と人間の風土)現在日本人の戦争に対する反応は敗戦のショックによるというよりはむしろ日本人が自然的、家庭的に形成された単一民族国家(欧米のように近代の産物として人工的に作られたものではなく)であるが故に、国際問題を扱う場合に相手がどう出るかを考えないで一方的宣言だけをする。つまり真空状態の中で日本だけが存在しているという鎖国的発想にもとづく戦争観、平和観であるというのである。最近世界各国の安全保障の問題について取材したあるジャーナリストの話によっても「安全保障」を忘れるところに安全保障の最良の政策があると考えるような日本人は、まさに鎖国的発想の最たるものであるというのである。この鎖国的発想は海外生活の有無に関係なく日本人の精神構造として伝統的に宿っているもので極めて根が深く、それが更に憲法や、日米安保問題によって強化されたものだといえるであろう。(以下次号)



※ 近況
○ 日本キリスト教団小平教会井上牧師より1万円の献金がありました。感謝。
○ 6月5日(水)衣笠病院長武田貴美元陸将、防大から今村和男教授及び今井健次教授が横須賀地方総監部に安永稔海将を訪問、歓談をしました。年次集会についても近く横須賀地区に開くことについても打ち合わせをしました。
○ 英国OCU顧問であり、日本宣教の大恩人でもあるGodfrey Buxton氏が来日されます。11月21日〜27日は東京、横須賀方面においでになりますので、近くの会員は歓迎準備をお願いします。

コルネリオ会事務局  横須賀市走水一丁目 防衛大学校  応用物理学教室 射理研内