Newsletter No.15(1975年7月)

※七つの教会

 「黙示録2,3章」
 先日来日されたアメリカOCF(Officers Christian Fellowship)牧師TOK先生のメッセージの中で黙示録の七つの教会についての話は我々には感銘の深いものであった。地上の教会には種々の団体や教派があるが、何れも特徴があり、しかも七つの教会と同様に主の目から見られて夫々の欠点があるにもかかわらず、何れも地上にあって主をあかしながら、その勤めを行っている、という事であった。
 我々主にあるクリスチャン一人一人は皆欠点を持っていても、夫々一つの教会に属して己の分をつくし、欠点を悔い改めつつ主に従っているわけである。そして主イエスキリストは夫々の教会について、そのすみずみまでお目をとどめつつ、正しく導いて下さるのである。ここでこの七つの教会についてどこが異なりどこが同じであるか考えてみよう。
 先ず存在する場所が異なる。夫々の場所は都市としての条件が異なるであろうし、従ってそれらは夫々性格を異にしているであろう。その性格はそこに集まった人達によって独特の雰囲気を作り出すであろうし、特にその指導者によって大きな影響を受けると思われる。即ち第一の教会から見て第2の教会の人はお客様であり、少なくとも他の家の人という感じがすることと思われる。
 又教会が古くなれば夫々の経歴と伝統が作られ異なった習慣が出来、異なった行事が行われるであろう。そこで我々自衛官のように転勤の多い者にとっては、転勤毎に異なった教会に行かなければならない。それでは次に七つの教会に共通するものを考えてみよう。
 聖書には「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(エリコ12−27)と書いてあり、教会のかしらはキリストで、キリストは一人しか居ないのだから我々は皆同類だという事になる。又あなたがたというのは「主は救われる者を日々仲間に加えて下さった」(使2−47)とあるように救われた者達という事である。故に我々は如何に顔形が異なり週間が異なり伝統が異なっていても、救われたという点で即ち同じみ霊の導きの中で生きているという点で一致しているわけであり、イエスキリストの弟子、僕として行動する時どこの教会へ言ってもそこの主は皆同じキリストだという事になる。どんなに移動は多くとも、その都度母教会の習慣を持ち歩くのではなく、行く先々の教会で荷を解き同じキリストの僕として寄留者としてその交わりに入ることが出来る。我々は何れもこの世の旅人(エペテロ2−11)なのだから、そしてこの場合我々が持参しなければならない通行手形は正しい信仰であろう。他の教会へ行って異なった習慣や行事に出会った時、先ずためされるのは自分の信仰である。これで良いのだろうか、という考えと、どちらが良いのだろうかという考えとが交錯する。その時確固とした正しい信仰を持っていないと行動が不安になり、人の前で臆する事になる。他の教会から来た人が始めに立派なあかしをするのに出会うと、心を打たれるものである。正しい信仰は単純であり明解である。そして之は主から頂いた最大の贈り物であろう。次にもう一つ大事な事は我々の持っている聖書が皆同じだという事であろう。これは当たり前の事のように思われるが、我々が未信者の人と違う所はこの聖書を「神のことば」としている事であろう。本屋の店頭に並んでいる聖書はそのままでは印刷された一冊の図書に過ぎないが、之がキリスト者の手に渡った時「神のことば」となる。だから我々は聖書を読み、理解し研究すると言うよりは、聖書に聞くのであり、み言葉の意味をあかしてもらうのであり、それを整頓して心の中にしまうのである。
 聖書の中で世の知識と矛盾したり理解困難なのは聖書が間違っているのではなくて、わからないのであり研究不足なのである。我々は正しく研究することによって聖書がだんだんわかって来る。神は我々に特別啓示である聖書の他に一般啓示である自然をも賜っているのであって、この両者から心をつくして学ぶ時、主は悠久の真理を我々の前に展開して下さるのである。
 七つの教会は今や七つの海を越えて世界中に広がっている。そしてその間の距離はひと飛びである。我々は先ずこの七つの教会の人達と意志の疎通をはかる事によって国土防衛の第一段階は果たされることと思う。


※ "Know your Bible"(第三回)
      ウイリアム・グラハム・ストロジー著
宮崎健男(大佐和キリスト教会牧師)訳
 創世記 鍵の言葉--選び

 創世記(Genesis)という表題は、ギリシャ語で起源と言う意味で、ヘブル語では始まりを意味し、両者はこの書の広がりと限界を示している。広がりについては、創世記は神を除いて、全てのものの始まりを語っている。宇宙の起源、生命の起源、人間の起源、同様に、安息日、契約、命名法、結婚、家族生活、犠牲、民族、政治、音楽、文学、芸術、農業、機会、都市、言語の諸起源等をみるのである。実にそこには、我々の知りうる全ての事物の起源がある。
 限界については、創世記は、単に始まりにすぎない。即ち、ここには完結はないのである。それは、いわば夜明けの本である。すばらしい夜明け、黙示と幻の時間である。そこから後の全ての黙示が出てくる収穫の種からである。それは、又水にあふれた神の水が流れ出る水源である。それは、その葉が、諸国民をいやす木を世界中に広げて来た力ある根である。それは小さな窓であり、そこから、暗い谷を越えて、喜びの地を望み見ることが出来る。それは、又神の啓示の建造物全体を支えている土台である。
 創世記は、歴史的、予言的、摂理的、予表的に、又霊的に学ぶべきである。創世記中の代表的な人物は、アベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、とヨセフである。主なる出来事は、創造、堕落、洪水、アブラハムの召命、エジプトへの移住である。
 最も卓越した予言は、創世記3章15節である。
 創世記を支配しているものは、神の選びの恵みである。アダムの子孫では、カインが脱落し、セツが選ばれる。ノアの子たちでは、ハムとヤペテが脱落し、セムが選ばれ、テラの子たちでは、ナホルとハランが脱落し、アブラハムが選ばれた。アブラハムの子たちでは、イシマエルが脱落し、イサクが選ばれ、イサクの子たちではエソウが脱落し、ヤコブが選ばれた。ヤコブの子たちでは、ユダがメシヤの家系として選ばれている。(創世記49章10節)歴史的贖いの根底、又背後には、永遠の選びがある。(エペソ1章4節)
 創世記の分析
[I]太古の歴史(1章1節〜11章9節)
 1.創造から堕罪まで(1章〜3章)
 (イ)創造と神の働きの週(1章1節〜2章3節)
 (ロ)楽園と人間の試練(2章4節〜25節)
 (ハ)蛇とエバとアダムの堕罪(3章)
 2.堕罪から洪水まで(4章1節〜8章14節)
 (イ)カインとアベルと、彼らのささげ物(4章1節〜16節)
 (ロ)カインとセツの系図(4章17節〜5章32節)
 (ハ)大背教と神の審判(6章1節〜8章14節)
 3.洪水からバベルまで(8章15節〜11章9節)
 (イ)神の人との新しい契約(8章15節〜9章)
 (ロ)ノアの三人の息子の子孫たち(10章)
 (ハ)バベルに於ける同盟と混乱(11章1節〜9節)
[II]族長の歴史(11章10節〜50章)
 1.アブラハムの物語(11章10節〜25章18節)
 (イ)信仰の覚醒 カルデヤのウルに於ける召命とカナンでの定着(11章10節〜13節)
 (ロ)信仰の訓練 カナンに於ける定住からイサクの誕生まで(14章〜21章21節)
 (ハ)信仰の完成 イサクの誕生からアブラハムの死まで(21章22節〜25章18節)
 2.イサクの物語(21章〜36章)
 (イ)従順な息子 - 誕生からリベカの結婚まで(21章〜24章)
 (ロ)忠実な夫 - 彼の結婚からベエルシバ定住まで(25章〜26章)
 (ハ)甘やかした父 - ベエルシバに於ける定住から彼の死まで(27章〜36章)
 3.ヤコブの物語(25章19節〜50章13節)
 (イ)押しのける者 誕生から家を離れて出発するまで(28章10節〜31章)
 (ロ)僕 家を出てからギリアデに於ける契約まで(28章10節〜31章)
 (ハ)聖徒 ギリアデに於ける彼の契約からエジプト移住まで(32章〜45章)
 4.ヨセフ物語(30章22節〜50章)
 (イ)訓練の時期 息子 ハランでの誕生からエジプト到着まで(30章22節〜38章)
 (ロ)試練の時期 苦難の人 エジプト到着から権力への昇進(39章〜41章36節)
 (ハ)勝利の時期 統治 権力への昇進から生涯の終わりまで(41章37節〜50章)
(以下次号)


※武士道 キリスト教と自衛官(その6)

  矢田部 稔(陸幕)

8.戦争の教義
 つぎに前大戦中ナチスの政策に激しく抵抗して来た、新正統主義神学者カールバルトーの「教会教義学」から引用しよう。
 「・・・・もしも戦争が許される場合があるとすれば次のような形でまず問われるであろう。」
 (1)戦争とは国家とその全国民が殺りくにたずさわる行為であり、そのための直接間接の準備と促進の行為である。この場合、それは神に命ぜられた致死であるのか、それとも神に禁じられた殺人であるのか。(2)戦争とはある国家に奉仕する人々が、その敵である人々を殺すことである。だがその敵も彼ら自身の国家に奉仕しているのであって、こちら側から見れば彼等は法の破壊者であり敵であるかも知れないが、その我々もあちら側から見れば同様ではないか。彼等は本当は正義の敵でないのではないか。(3)戦争は個人に関する事でなく、何千万という人々にかかわることである。つまり道徳全体が問題になるのであり、あらゆる次元で問題になるのである。
 戦争に於いては盗みや姦淫も起こる。戦争によって人々が良くなるということはまず全くない。それでもこれは許されるだろうか。
 このように考えてくると戦争を肯定することは間違いだということがはっきりわかる。
 万一止むを得ない場合があったとしても、戦争否定の態度を終始保持していることが前提でなければならない。そうでない肯定の仕方はすべて間違いである・・・・・。
 しかし他方絶対平和主義者の誤りをも指摘しなければならない。彼等は戦争を抽象的に否定している。彼等はそれに先立つ平和との関連から離れて戦争を否定するように言うが、実はこの平和と戦争との関連は甚だ重要である。即ち平和という正常な課題を正しく遂行出来ないような国家は必ず戦争をするようになる・・・・。
 さて我々は今まで、戦争に対して肯定的な見解を持つことは出来ないことを考えて来た。
 だが一民族または一国家が危急の非常事態に直面させられて、その存在又は独立を脅かされ、かくてその存在を放棄するか、または主張するかの究極の問題に直面した場合、戦争の手段で対抗することが認められるか否かということが次の問題になる。
 即ち正しい戦争というものはあり得るであろうか、あるとすればそれはどのような理由で正しいと言われるのであろうか。
 独立や中立が侵犯される場合、例えばスイス連邦の領土不可侵性が犯された場合、このような時には共に生活している人々の肉体的、精神的生活に対する責任と、神に対する責任とから自分独り安逸をむさぼることは許されず、戦争をしなければならないことがある。
 これはよくよくの事ではあるが、又これは他国に味方するという形でも起こり得ることである。このように戦争が正しいと見なされる場合には、我々は絶対平和主義を唱えていてはならない。あらゆる軍事行動を否定してはならない・・・・。
 次に兵役の問題についてふれると、戦争は多数者の事柄でも少数者の事柄でもなく、実に一国民全体の事柄である。すべての人は平和にも与っていると同様に戦争にも参与する事になり、自分だけは戦争に参与しないという事は出来ない。兵役の義務は国家の事柄を個人の人格的な問題としてとり上げさせるという点で特徴がある。しかし兵役義務は神の召命のようなものではない。国家は神ではないし、神が命じ給うような絶対的な力ももって国家が我々に命ずることは出来ない。多数決の統治は正しいけれども絶対ではないのである。そして国家の命がどうしても神の命でないという決断が神の前で生じた時、兵役拒否ということが許される。しかしこの場合に二つの条件を考えなくてはならない。
 その一つは我々は人格的個人であると同時に国民の一人であるという事が藤一されていなくてはならない。たとえ兵役の拒否を通じてさえ、神の命に服するという意味において国民としての連帯責任を果たすことにおいて国家を肯定するのでなくてはならない。もう一つは、兵壁教日に対する国の刑罰は之を甘受しなくてはならない。その国に所属するかぎりその国の法に従うことになる。従って絶対平和主義の立場から兵役を拒否することは誤りである、平和にしろ戦争にしろ絶対主義というものは神の命令の自由を限定するものであり正しくない。
 以上がバルトーの戦争の教義の概要である。
(以下次号)



 

※日米合同集会

 アメリカOCFの専任教師Tok氏の来日を機に、米軍横田基地のMcDonald空軍中佐が主催して5月17日(土)18日(日)の両日、日米合同の修養会が東京南多摩の米軍retreat houseで開催された。
 米軍側は空軍横田基地、陸軍座間基地、および海軍横須賀基地から家族を含んで十数名。日本側は武田会長夫妻、矢田部2佐夫妻、森田3佐、?原1尉、千葉牧師、今井教授であった。会場に着くや会は昼食によって始まった。相手は米国人らしく周囲からこれはいらないか、あれは食べないかと親切なること下にもおかないもてなしで、クリスチャンというのはこうでなくてはいけないのかと、我をかえりみてしばし呆然の態であった。初対面の人に対してもこのような態度で接するので、直ぐに親しくなってしまうが、しかしこちらは絶えず気をつかう事になるので、これが何日を続くのでは大変だなと思った。しかし聖書によればお互いに兄弟姉妹なのであるからこれが当然であると言えば当然なので、その代わりお互いの失敗や習慣の違いは十分に認め合うことが必要であろう。我々は相手のどんな行為も言葉も(悪意であるはずがないので)批判する事なく許し合って行くなら、お互いに主にある一致を得ることが出来る事を教えられた。
 Tok師のメッセージは三回あり、何れもOfficerに適切な奨励であり、自衛隊員の立場から見ても有益な講義であった。Bible strdyは二回、何れもグループ研究で数人づつのグループに分かれ、与えられた聖書の個所について討論しながら結論を出すもので、我々は言葉のハンデキャップの為十分な発言は出来なかったが、それでもブロークン米語で日本式信仰をまくし立てた御仁も居たようである。祈祷会も小グループで行ったが、これは日本語で祈ったので米側と対等であった。日本語で祈っても何となくわかるのか気分的には一致するから不思議である。それから夜の集会は日本OCUの時間という事で武田、矢田部、今井の三人があかしをする事になっていた。その場ではとてもしゃべれないのであらかじめ原稿を書いて行ってそれを読んだ(原稿なしでしゃべった人も居たが)。あとで米人に「理解出来たか」と聞いたら、「よく理解出来た。非常に良かった」との事で満更お世辞でもなさそうなので気をよくすることになった。翌朝は起床に続いてQuiet Timeというのがあり、夫々聖書を持って散歩に出たようであるが、こちらは少し歩き過ぎて聖書を読む時間がなくなってしまったのは失敗であった。続いて第2日の集会が始まり聖日礼拝によって午前中の行事が終わった。昼食の後お別れ祈祷会となり、一同別れをおしみ、再会を約して解散した。
 Tok師はその後韓国に渡って帰路再び来日された。5月30日(金)正午頃飛行機で羽田着、その足で横須賀の防衛大学校に来訪された。来訪されたのはTok夫妻とMcDonald中佐及びご子息、それに韓国駐留の米陸軍軍人でOCFメンバーの陸軍中尉が二人Tok師と共に来訪された。この人は今日日本へ来て明日韓国へ帰ると言うことで防大での集会のために、わざわざ来られたのである。他に羽田の大韓航空の支店長のユーン氏が元韓国OCUのメンバーだという事で同行され、千葉牧師、武田会長も同行された。学校のお世話で学生会館の第4談話室が集会場にあてられ、防大側からは今井教授他学生7名が参加した。
 先ず学校紹介の映画を見た後各自、自己紹介や話し合いが行われ、学生の夕食の時間ぎりぎりまで時の過ぎるのも忘れる程の盛会であった。
 防大の集会に続いて横須賀二葉の武田会長宅で武田会長の招待で夕食会が催され一同それに参加した。
 更に加わった人達も合わせて十数名が主にある交わりを持つ事が出来、夜の更けるのも忘れて友情をあたためる事が出来た。
 尚5月31日(土)19:00から横須賀米軍サービスメンセンターで横須賀米軍OCFでTok牧師を囲んだ集会があり、日本OCUからも有志が参加した。(今井記)

※支部通信

(1)北海道千歳支部からお便りと名簿が届きました。
  主にある交わりを感謝いたします。
  コルネリオNo.14松山兄より届きました。千歳地区8部でした。出来れば20部ぐらいに増して下さいませんか。千歳では約束どおり6月15日(日)14時〜18時まで道央コルネリオ集会を計画しています。このために各人が努力をし大駐屯地の中でうずもれている信者をさがし求めています。中央でも小さなコルネリオ支部のためにお祈り下さい。
 松山兄、安達兄(千葉高射学校)が転属しましたあとで何か大穴があいたようです。私達の教会はコルネリオ会員4名が役員会に入り活躍中です。道央大会にも頑張ってもらい、家族ぐるみの信仰をと願っています。
 全国コルネリオ会員のために祈ります。特に武田先生、今井先生の働きの上に恵みが豊かにあります様に。

 千歳支部名簿
 氏 名     階級   所   属    住所(教会)
渡辺 正義 2尉 東千歳第7補給隊  役員 千歳栄光教会 受洗
本田 龍成 1曹 〃 業務隊     役員   〃     〃
中野 研精 2曹 〃11普連3中   役員   〃     〃
阿部 信男 〃  〃  〃       千歳カトリック教会 〃
佐藤 俊助 〃  北千歳第1特科群本中   栄光教会    〃
泉谷 猛宏 〃  〃  第1特科団本中     〃     〃
高林 常雄 3曹 東千歳第7特科1大隊     〃     〃
寺崎  清 〃  〃  11普連本管中     〃     〃
三春 佳昭 〃  〃  24普連2中      〃    求道
水田 正三 OB           役員   〃    受洗
谷口 保男 1曹 2空団司令部     千歳栄光教会    〃
中野 次男 技官 〃  施設隊      〃        〃
その他4〜5名おります。

(2)防大支部
 四月から指導教官として森田3空佐と橋本1空尉を迎えることになり防大支部も偉力が増大した。これを機に四月から月一回職員の会食を行うことにした。
 従来学生中心の聖研のみに注目して職員の主にある交わりが少なかった点は反省を要すると思われるので、今後は職員の会合も段々充実したものにしていきたい。