創世記 鍵の言葉--選び宮崎健男(大佐和キリスト教会牧師)訳
創世記(Genesis)という表題は、ギリシャ語で起源と言う意味で、ヘブル語では始まりを意味し、両者はこの書の広がりと限界を示している。広がりについては、創世記は神を除いて、全てのものの始まりを語っている。宇宙の起源、生命の起源、人間の起源、同様に、安息日、契約、命名法、結婚、家族生活、犠牲、民族、政治、音楽、文学、芸術、農業、機会、都市、言語の諸起源等をみるのである。実にそこには、我々の知りうる全ての事物の起源がある。
限界については、創世記は、単に始まりにすぎない。即ち、ここには完結はないのである。それは、いわば夜明けの本である。すばらしい夜明け、黙示と幻の時間である。そこから後の全ての黙示が出てくる収穫の種からである。それは、又水にあふれた神の水が流れ出る水源である。それは、その葉が、諸国民をいやす木を世界中に広げて来た力ある根である。それは小さな窓であり、そこから、暗い谷を越えて、喜びの地を望み見ることが出来る。それは、又神の啓示の建造物全体を支えている土台である。
創世記は、歴史的、予言的、摂理的、予表的に、又霊的に学ぶべきである。創世記中の代表的な人物は、アベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、とヨセフである。主なる出来事は、創造、堕落、洪水、アブラハムの召命、エジプトへの移住である。
最も卓越した予言は、創世記3章15節である。
創世記を支配しているものは、神の選びの恵みである。アダムの子孫では、カインが脱落し、セツが選ばれる。ノアの子たちでは、ハムとヤペテが脱落し、セムが選ばれ、テラの子たちでは、ナホルとハランが脱落し、アブラハムが選ばれた。アブラハムの子たちでは、イシマエルが脱落し、イサクが選ばれ、イサクの子たちではエソウが脱落し、ヤコブが選ばれた。ヤコブの子たちでは、ユダがメシヤの家系として選ばれている。(創世記49章10節)歴史的贖いの根底、又背後には、永遠の選びがある。(エペソ1章4節)
創世記の分析
[I]太古の歴史(1章1節〜11章9節)
1.創造から堕罪まで(1章〜3章)
(イ)創造と神の働きの週(1章1節〜2章3節)
(ロ)楽園と人間の試練(2章4節〜25節)
(ハ)蛇とエバとアダムの堕罪(3章)
2.堕罪から洪水まで(4章1節〜8章14節)
(イ)カインとアベルと、彼らのささげ物(4章1節〜16節)
(ロ)カインとセツの系図(4章17節〜5章32節)
(ハ)大背教と神の審判(6章1節〜8章14節)
3.洪水からバベルまで(8章15節〜11章9節)
(イ)神の人との新しい契約(8章15節〜9章)
(ロ)ノアの三人の息子の子孫たち(10章)
(ハ)バベルに於ける同盟と混乱(11章1節〜9節)
[II]族長の歴史(11章10節〜50章)
1.アブラハムの物語(11章10節〜25章18節)
(イ)信仰の覚醒 カルデヤのウルに於ける召命とカナンでの定着(11章10節〜13節)
(ロ)信仰の訓練 カナンに於ける定住からイサクの誕生まで(14章〜21章21節)
(ハ)信仰の完成 イサクの誕生からアブラハムの死まで(21章22節〜25章18節)
2.イサクの物語(21章〜36章)
(イ)従順な息子 - 誕生からリベカの結婚まで(21章〜24章)
(ロ)忠実な夫 - 彼の結婚からベエルシバ定住まで(25章〜26章)
(ハ)甘やかした父 - ベエルシバに於ける定住から彼の死まで(27章〜36章)
3.ヤコブの物語(25章19節〜50章13節)
(イ)押しのける者 誕生から家を離れて出発するまで(28章10節〜31章)
(ロ)僕 家を出てからギリアデに於ける契約まで(28章10節〜31章)
(ハ)聖徒 ギリアデに於ける彼の契約からエジプト移住まで(32章〜45章)
4.ヨセフ物語(30章22節〜50章)
(イ)訓練の時期 息子 ハランでの誕生からエジプト到着まで(30章22節〜38章)
(ロ)試練の時期 苦難の人 エジプト到着から権力への昇進(39章〜41章36節)
(ハ)勝利の時期 統治 権力への昇進から生涯の終わりまで(41章37節〜50章)
(以下次号)
8.戦争の教義
つぎに前大戦中ナチスの政策に激しく抵抗して来た、新正統主義神学者カールバルトーの「教会教義学」から引用しよう。
「・・・・もしも戦争が許される場合があるとすれば次のような形でまず問われるであろう。」
(1)戦争とは国家とその全国民が殺りくにたずさわる行為であり、そのための直接間接の準備と促進の行為である。この場合、それは神に命ぜられた致死であるのか、それとも神に禁じられた殺人であるのか。(2)戦争とはある国家に奉仕する人々が、その敵である人々を殺すことである。だがその敵も彼ら自身の国家に奉仕しているのであって、こちら側から見れば彼等は法の破壊者であり敵であるかも知れないが、その我々もあちら側から見れば同様ではないか。彼等は本当は正義の敵でないのではないか。(3)戦争は個人に関する事でなく、何千万という人々にかかわることである。つまり道徳全体が問題になるのであり、あらゆる次元で問題になるのである。
戦争に於いては盗みや姦淫も起こる。戦争によって人々が良くなるということはまず全くない。それでもこれは許されるだろうか。
このように考えてくると戦争を肯定することは間違いだということがはっきりわかる。
万一止むを得ない場合があったとしても、戦争否定の態度を終始保持していることが前提でなければならない。そうでない肯定の仕方はすべて間違いである・・・・・。
しかし他方絶対平和主義者の誤りをも指摘しなければならない。彼等は戦争を抽象的に否定している。彼等はそれに先立つ平和との関連から離れて戦争を否定するように言うが、実はこの平和と戦争との関連は甚だ重要である。即ち平和という正常な課題を正しく遂行出来ないような国家は必ず戦争をするようになる・・・・。
さて我々は今まで、戦争に対して肯定的な見解を持つことは出来ないことを考えて来た。
だが一民族または一国家が危急の非常事態に直面させられて、その存在又は独立を脅かされ、かくてその存在を放棄するか、または主張するかの究極の問題に直面した場合、戦争の手段で対抗することが認められるか否かということが次の問題になる。
即ち正しい戦争というものはあり得るであろうか、あるとすればそれはどのような理由で正しいと言われるのであろうか。
独立や中立が侵犯される場合、例えばスイス連邦の領土不可侵性が犯された場合、このような時には共に生活している人々の肉体的、精神的生活に対する責任と、神に対する責任とから自分独り安逸をむさぼることは許されず、戦争をしなければならないことがある。
これはよくよくの事ではあるが、又これは他国に味方するという形でも起こり得ることである。このように戦争が正しいと見なされる場合には、我々は絶対平和主義を唱えていてはならない。あらゆる軍事行動を否定してはならない・・・・。
次に兵役の問題についてふれると、戦争は多数者の事柄でも少数者の事柄でもなく、実に一国民全体の事柄である。すべての人は平和にも与っていると同様に戦争にも参与する事になり、自分だけは戦争に参与しないという事は出来ない。兵役の義務は国家の事柄を個人の人格的な問題としてとり上げさせるという点で特徴がある。しかし兵役義務は神の召命のようなものではない。国家は神ではないし、神が命じ給うような絶対的な力ももって国家が我々に命ずることは出来ない。多数決の統治は正しいけれども絶対ではないのである。そして国家の命がどうしても神の命でないという決断が神の前で生じた時、兵役拒否ということが許される。しかしこの場合に二つの条件を考えなくてはならない。
その一つは我々は人格的個人であると同時に国民の一人であるという事が藤一されていなくてはならない。たとえ兵役の拒否を通じてさえ、神の命に服するという意味において国民としての連帯責任を果たすことにおいて国家を肯定するのでなくてはならない。もう一つは、兵壁教日に対する国の刑罰は之を甘受しなくてはならない。その国に所属するかぎりその国の法に従うことになる。従って絶対平和主義の立場から兵役を拒否することは誤りである、平和にしろ戦争にしろ絶対主義というものは神の命令の自由を限定するものであり正しくない。
以上がバルトーの戦争の教義の概要である。
(以下次号)
千歳支部名簿
氏 名 階級 所 属 住所(教会)
渡辺 正義 2尉 東千歳第7補給隊 役員 千歳栄光教会 受洗
本田 龍成 1曹 〃 業務隊 役員 〃 〃
中野 研精 2曹 〃11普連3中 役員 〃 〃
阿部 信男 〃 〃 〃 千歳カトリック教会 〃
佐藤 俊助 〃 北千歳第1特科群本中 栄光教会 〃
泉谷 猛宏 〃 〃 第1特科団本中 〃 〃
高林 常雄 3曹 東千歳第7特科1大隊 〃 〃
寺崎 清 〃 〃 11普連本管中 〃 〃
三春 佳昭 〃 〃 24普連2中 〃 求道
水田 正三 OB 役員 〃 受洗
谷口 保男 1曹 2空団司令部 千歳栄光教会 〃
中野 次男 技官 〃 施設隊 〃 〃
その他4〜5名おります。
(2)防大支部
四月から指導教官として森田3空佐と橋本1空尉を迎えることになり防大支部も偉力が増大した。これを機に四月から月一回職員の会食を行うことにした。
従来学生中心の聖研のみに注目して職員の主にある交わりが少なかった点は反省を要すると思われるので、今後は職員の会合も段々充実したものにしていきたい。