たしかにこれらの教えはきびしく、合理主義的な現代の社会ではそのままでは通用しないように思われる。
我々人間が社会を作って住むためには、それを運営するルールが必要であり、そのための倫理や善悪の基準を作って行かなければならない。その基準は自然を通して学んだり、又はお互いの社会環境の中から人間が作り出していったものであり、或いはその間から自然に発生していったものであろう。そして、それら人間の基準を元にして神の啓示である山上の垂訓に接する時、両者の間に差があることを知っておどろくのである。
クリスチャンは聖書によれば、「新しく生まれ変わったもの」(ヨハネ3−3)であり、キリストの性質にあづかる者となるのだから、善悪についてはこの世の基準に従うよりは天から啓示された基準に従うわけである。そして「良い行いをするように造られた」(エペソ2−10)ものであり、神の戒めを行うように造り変えられているのである。だからクリスチャンは若しこの世から完全に隔離されて生活しているのであれば、神の啓示やいましめにそのまま従うことが出来る事になろう。
しかし我々は目的があるのでそのようなこの世から隔離された生き方は許されない。我々は好むと好まないにかかわらず、現状で主の僕としてこの世につかわされているので、この世から逃避することではなく、不調和なこの世の中であかしを立てながら生きて行かなくてはならない。世の人を得るためには(Iユリ9−19)世と妥協するのではなく、この世にその持ち場を保つ必要があり、世の光として明かりを机の下にかくすような事は出来ないし、我々の基準は世の塩として、この世の十字架を担わなくてはならない。又、キリストにあるならばその荷は軽く(マタイ11〜30)我々には常にそれをになう力が与えられているというのである。
我々はクリスチャンであってもこの世にあって色々ななやみを持ち、問題を持ち、重荷を持っている。その上十字架まで負うのではとても身が持たないように思うが、その点は心配ないという事で、我々の重荷は皆キリスト・イエスが代わって負って下さる(マタイ11〜28)というお約束である。自分の問題はすべて主が解決して下さるというので我々は空身で自分の十字架だけ負っていればよいので、これは戦闘に当たって第一線部隊は銃だけ持って進めばよいので、あとの必要品はすべて後方部隊が持って来てくれるのと似ている。
このように理屈は大変簡単であるが、十字架を負う戦いは決してそれ程やさしいものではないであろう。
そこで問題になるのは罪の問題であろう。聖書によるならば神から離反したサタンは人間の間に巧妙に入り込んで、我々を誠の真理の道から離そうとする。その方法は簡単で、見えている人の目の前に一寸邪魔をおいて見えないようにさえぎれば人は自分の頭の中で思考し判断しようとする。その時サタンは容易にその中に入り込むことが出来るというのである。そこで我々は常に神の啓示を見失わないように注意し、サタンと戦う必要がある。
我々は新しく生まれ変わったと言ってもやはり、その前の人生を忘れたわけではなく、古い習慣を覚えているし、欲望は兎角自分中心の思いになりやすく、安易なルールにもどりやすい。しかし幸いなことに聖霊による助けはそれに打ち勝つに十分な命と力とを与えて下さるという約束がある。(ヨハネ16−12〜33)
そしてたとえこの世に於いてつまづく事があっても最期に行きつく先は天国であり、今は主からたまわる永遠の命をひっさげてこの世を渡り、この世のちりで足がよごれるならば恐れることはない。兄弟互いに足を洗い合えばよいのだ。(ヨハネ13−14)「およそ存在している権威はすべて神によって立てられたものだからである」とあるように、我々はその属する職場にあって、その勤めをつくし、些細な事に一喜一憂するのではなく聖書の示す啓示に正しく目を向けながらこの世を渡るべきである。之が「世に勝つ」(ヨハネ16−33)ということではなかろうか。
我々の任務は世を改造して天国にすることではなく、(それは主がなさって下さる)世にあって光をかかげ世の人々が自由意志によって光を見上げ天国を待望するようになるためにあかしすることであろう。
出エジプト記の分解宮崎健男(大佐和キリスト教会牧師)訳
レ ビ 記
鍵の言葉 − 交わり 章数27
レビ記という題は、祭司の氏族であるレビから来ており、この書は歴史書ではなく、儀式の書である。これは「出エジプト」の出来事の前進ではなく、その時期に制定された、儀式を詳述したものである。この書は倫理的な性格を持ち、道徳的・霊的な価値を持つ。
主な記述は、供え物、とりなし、分離、聖めである。主なる供え物は5つあり、それらは、はん祭、素祭、酬恩祭、罪祭及びけん祭である。これらは全て過越しに含まれており、過越は、これらの中に含まれる。
又8つの大きい祭、安息日、過越し、ペンテコステ、ラッパの祭、贖い、幕屋、安息の年及びヨベルの年がある。代表的な人物はアロンであり、代表的な章は、贖いの年について記している。第16章である。祭司制が一つの務めとして紹介されている職域を観察するのは大切である。この務めは既に贖われた民のためである。キリストは唯信者のための大祭司である。アロンとその後継者達が、過越しの血をくぐって来たイスラエルの民のためにのみ、奉仕をした様に、キリストは、キリスト教海のためにだけある型の成就となられた。世界のための祭司制は存在しない。出エジプトとレビ記との関連性に注目しよう。前者に於いては、民は神に近寄せられ、後者に於いて、民は神に近く保護されるのである。出エジプトは、贖いの事実であり、レビ記はその教理である。前者は罪人で始まるが、後者は、聖徒で始まる。即ち、彼等の状態は必ずしも、そうとは言えないが、彼らの身分について言えば、そう言えるのである。出エジプトに於いては、神が我々に近づかれることを知るが、レビ記では我々が神に近づくのを見る。前者では、キリストは救い主であるが、後者では聖めるお方である。出エジプト記に於いては、我々の罪が目立つが、レビ記では、我々の汚れが、目立つ。前者では、神なるお方として啓示されているが、後者では、光なるお方として、啓示されている。前者では、我々は彼との結合へと招かれているが、後者では、交わりに入る様にと、招かれている。出エジプト記は、我々に赦しを提供するが、レビ記は我々をきよめへと招いている。前者で我々はサタンから解放され、後者では神に捧げられるのである。出エジプトでは神はシナイから語られ、レビ記では、神は幕屋から、語られる。(次回へ)
感 謝 状
米国空軍中佐 F.D.マクドナルド 殿
同令夫人 B.J.マクドナルド 殿
貴殿及び令夫人は、日本側在任の間、在日米軍キリスト者将校会の代表として、自衛隊キリスト者コルネリオ会との、神にある交わりの為に、献身的に尽力して下さいました。
私達は、貴殿の離日に当たり、感謝状を贈り感謝の意を表し、永く記念とします。
1976年2月21日
自衛隊キリスト者コルネリオ会
会長 元陸将 武田貴美
(以下英訳・・・・・省略)
(今井記)
職場においても、町内会のおつきあいにおいてもキリスト教会で結婚式はしたのだとか、子供は教会の幼稚園に出しているとか、また、学生時代には教会へ行ったことはあるとおっしゃる方々は意外に多いのです。如何でしょうか、あなたご自身は救いにあずかっておられても福音を独り占めになさってはおられませんか。コルネリオ会の帰途、もっともっと福音を私共も宣べ伝えるべき義務があることを夫婦で語りつつ帰宅いたしました。