ニュースレター No.22   1978年4月


※ 伝  道

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3−16)
 関東地方で朝ラジオのチャンネルを回すと6時25分から45分までの 20分間、キリスト教の放送が流れてくる。しかしよく聞くと、その20 分間はコマーシャルをはさんで三つの放送であることがわかる。
 我々クリスチャンが聞けば、これはキリスト教の三つの教派の放送であ ることがわかるが、一般の人が聞いたら、その区別がつかないかも知れな い。しかしどの放送も良いお話であるし、又聖書のみ言葉、又はその解説 に接する事になる。従って「宜べ伝える者がなくて、どうして聞くことが あろうか」(ロマ10−14)というみ言葉は一応達成されたことになる。 又土曜日には朝9時から10時までテレビを通してキリスト教の放送が流 れる。アメリカの一牧師が篤信の家族と共に、世界中にわたって伝道して いる場面を、一時間にわたって放映しているわけで、若しこの牧師が日本 人であったら、日本はも早キリスト教国になったのではないかと錯覚しそ うである。外観上ばそのように見えるが、しかしそれで日本がキリスト教 国になったわけではない。基督教年間を開いてみると、そこには日本の昨 年度の教勢が書かれている。日本全国に数多くの教会、教団がそれぞれ 悪戦苦闘して、主のみ名の宣教の為に労しておる事が一目でわかる。その ような人達には甚だ申訳ない言い方だが、しかし統計という立場から見れ は、数多い教団の中で信徒一万人を超えるものは、誠に数える程しかない。 宣教はむづかしいとか、日本人にキリスト教は適きない等と言ってしまえ ば、それまでだが、しかし福音ま電波を通して多くの大衆に届いている事 を考えるならば、我々先に救われた者としては、も一度我々自身の生き方 に思いを致す必要があるのではなかろうか。我々はそれぞれの教会に所属 して礼拝を守っている。各教会にはそれぞれの伝統があり、又その指導者 にはその人特有の霊的な賜物があるであろうし、独得な霊的体験があるか も知れない。そしてその体験のもとに他の人にない指導が出来るわけであ る。しかしその特異牲をあまりに重視するならば、他の人に対してみ言葉 の素直な理解をさまたげられることともなり、又クリスチャンの唯一の教 範である聖書の一部分だけを強調することともなる。  教会の使命は特珠な人達だけを導くのではなく「すべての国民を弟子と して」導かなければならないわけである。「願い求めるものはなんでもい ただけるのである」(ヨハネ3−22)というみ言葉があるからと言っ て、必要な事は祈ることだけでよい、という考え方には問題がある「主な るあなたの神を試みてはならない」(マタイ4−7)のであり、我々は主 から頂いている、又は預っている賜物は十分に用いなくてはならない。カ ナの婚礼の奇跡が起きる前には、六つの大きな水がめに水をいっはい入れ る必要があった。(ヨハネ2−1〜11)
 テレビの放映に接する人の数は、教会に通っている人の数にくらべたら 桁違いに多い事と思われる。そしてそれらの人達が福音に関心を持つか、 反撥を感じるかは、多分にその回りに居るクリスチャンの言動によるので はなかろうか、その時の応対がその人を将来教会に導くか否かを決定する ことになる。テレビの放映が教会の行事と対立するとか関係がないと考え るのは短見である。テレビで語られるのは言わば一般論であり、それだけ で独立するという事はあり得ないし、若しあったとすれば変則であろう。 その地域に対し又個人に対して特有な事は夫々の教会で語られればよいし、 又語られなければならないので、テレビで語られる事が誤っていないかぎ り、又多少自分達の主張と異なっていても教会ではそれを修正してでもこ の世に流れ出ている放送な活用しなければならない。
 主のみ旨でなければ、又聖霊によるのでなければ、イエスをキリストと 告白する声が世間に流れるはずはないので、我々はこの声や聞き霊の交わ りを通して、我々自身の福音伝道の使命に結びつける必要がある。これは 放送だけに限られるわけではなく、あらゆるメデイヤを通して世に流れて いる福音の声、聖霊のひそかな声に対して聞き耳を立て、時と所に応じて 応答する必要がある。
 各地に散在しているキリスト教自衛官は夫々の地でその職務を通して正しく主の道を歩むためには、その所属する教会に於いて信仰にはげむと共に、 この世に流れている福音の声に、又世界中にのべ伝えられている伝道の響 きに耳をかたむけつつ、地の塩としての務めを果たすことが必要である。

★ "Know Your Bible"(第9回)
  著者 W. C. Scroggie   訳者 宮崎 健男(金沢フィラデルフィア教会牧師、防大8期)
  福音書の序論  題
 福音書が、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネと呼はれるのは、一つの福音 に実際4つの記録があるからである。福音(gospel)と言う言葉は「良い おとずれ」の意味であるが、それがこの記録の範囲、内容、価値を充分に 示している。と言うのは聖書の全記録は、ニュースではあるが、全てが良 いニュースとは限らないからである。この良いおとずれとは、神がご自身 を人類のあがないのために、時間の中に又肉に於いて顕現されたことであ る。四福音書の各々は、この良きおとずれを記録している。
 ??????  これらの書物のおこりについては新約聖書の難問の一つであり、新約聖 書批評学者に委ねなければならない。我々の福音書の背景には、それらが 引き出された資料があったことはほとんど疑い得ない。(ルカ1の1−4参照)
 マタイ、マルコ、ルカに共通な資料があり各福音はそれぞれ特有の資 料も持っている。
 相違はあるが、これらは必然的な矛盾ではない。著しい相違は必ずしも 矛盾を意味しない。最初の三つの記録は共観書と呼ばれ、それらが同じ一 般的な観方又は概略を持っていることを意味している。第四番目の記録は、 実地検証的であり、その観方も時期も全く異っている。

 時期と順序
 これらの記録の時期を正確に決めるのは不可能だが、一番早いものでも 紀元後50年以前ではなく一番遅いものでも紀元後95年以後ではないと 言い得るであろう。
 疑いもなく最初に出たのはマルコであり、最後はヨハネである。そして 他の二つでは、マタイがルカよりも前である。

 著者
 これらの記録がその名を持つ人々によって書かれたことを疑う理由はな い。即ち収税人のマタイ、マリヤの子マルコ、「愛された医者」ルカ、漁 師のヨハネである。第四番目の福音の著者に関しては多くの批評が持ち上 ったが、ヨハネに対するウエストコット監督の証拠は反ばく出来ないもの である。

 性格
 福音書を文学として分類するの困難である。それらは通常私たちが理 解する様な歴史や伝記でもなく、しかもそれらはイエスの生涯、教え、わ ざに関する多方面に亘る覚え書き以上のものである。多分回顧録が何より も良い名称であろう。

 数と特色
 この点に於いて書かれて来た物の全てが有益なものばかりではなく、い くつかのものはばからしいものであった。正経として認められた福音書 数はいつも4つであった。紀元後150年にはシリヤ人タティアンがシリヤ 語訳から、それら四福音書を調和的に整頓しそれが存在する様になった。
 4つある理由又唯4つだけである理由は大切であるに違いない。この意 義は、キリストが人類の必要に対する答であると言うことから見出さねば ならない。即ち、ユダヤ人に対してはマタイ伝、ロ−マ人に対してはマル コ伝、ギリシヤ人に対してはルカ伝、又教会に対してはヨハネ伝の中にそ の必要があって、その答はキリストで、彼はマタイでは統治者、マルコで は僕、ルカでは人間、ヨハネでは神として描かれている。これらの記述は 総括的であり、決定的である。最初二つは公文書的であり、最後の二つ は個人的である。
 これらの相違と共に、何故唯4つしかないのかを理解するに役立つ、こ れらの記録の他の特色もある。マタイは特に過去を語り、又マルコは現在 をルカは、未来をヨハネは全て永遠を語っている。エゼキエル書のケルビム の姿は、これらの記録の中に反映されている象徴的な意味を持っている。 即ち、マタイはししの様であり、マルコは牛の様であり、ルカは人間の様 であり、ヨハネはわしの様である。  マタイは説教者であり、マルコは、記録者、ルカは歴史家であり、ヨハ ネは哲学者である。

 価 値
 あがない主を知る上において我々は全くこれらの四つの記録に依存して いる。もしこれらが記されていなかったとしたら多分、教会ほ生きながら えなかったであろう。
 人間の著者や資料の背後には、疑いもなく神の監督的な摂理がある。こ れらの無学な人々は無意識の芸術家であって、神の御霊に導かれ、彼等も ??創造することの出来なかった一つの人格を描いたのである。これ らの?潔なパンフレットの価値は測り知るべくもない。
 ??の福音書の各々についての簡潔な紹介の中では特に次の七つの項 目が述べられるであろう。著者、読者、記録の場所、日時、文体、目的、 特色である。これらの特徴は、いくつかの信頼すべき手引と一緒に記録を 注意深く読むことによって、詳細に突き止められねばならない。 (次回へ)


★日米合同クリスマスパーティ

 53.12.17(土)、18(日)の二日間にわたって東京都多摩町(国鉄 南武線南多摩駅下車)にある、米空軍のレトリートセンターに於いて日米O CU合同のクリスマス集会を開催した。そのスケジュールおよび概要はつ ぎのようであった。
 スケジュール
17日(土)
 13:00〜15:00 チェックイン
 15:00〜15:30 開会祈祷、自己紹介
 15:30〜17:30 子供のためのクリスマス会
 17:30〜19:00 夕食
 19:00〜21:00 キャロル
 20:00〜20:30 子供就寝
 20:30〜21:30 メッセージ(ゲスト Ms. Nell Kennedy)
 21:30〜22:00 懇談
18日(日)
 07:00 起床
 08:00〜09:00 朝食
 09:30〜11:30 礼拝
 11:00〜11:30 プレゼント交換
 11:30〜12:00 交歓
 12:00〜13:00 昼食
 13:00〜13:30 チェックアウト

1)日米合同クリスマスパーティーはクリスマスツリーの飾り付けから始 まった。三々五々集まって来る日米両国の家族には子供連れが多く、会場 にしつらえたもみの木にはどんどん飾り付けが進む。各自思い思いに飾る のだが、日米の子供達が話し合いながら(子供同士話しがわかるらしい) 何とかまとまっていった。日米とも前に会って知り合った人が多いので、 お互に紹介し合ったりしてなごやかなうちに予定は進行していった。

2)15:30から幹事の指示で、子供のためのクリスマス会が始まり、大 人は雑談しながら回りで見ていることになる。米側Emerson兄他、日本 側森田兄他の指導で子供達の遊びが始まる。始め打合せてあったものと 見え、日米とも言葉の不自由な点は笑顔で何とか意思が通ずるらしく、歌 を歌ったり、何やら遊戯をしたり、折紙や切紙をしたりで子供達は結構夢 中のようである。森田兄の指揮ぶりもあざやかで子供達もよく言うことを 聞いている。小さな子供達に2時間という遊び時間はかなり遊びがいがあ るらしく、そろそろ皆あきて来た頃夕食の時間となった。

3)夕食後はクリスマスキャロルを日米両語で合唱ということで、メロデ イは同じなのに2部合唱のような感じで、ここに国際的な感じが出ていた。

4)20:00子供就寝の時間となり、それぞれの親が子供達を寝室につれ て行った。親達はもどって来たが、しばらくすると寝つかれないのか子供 が会場にもどって来て、親が再び寝室につれて行くという状景もある。出 て来るのはどうも日本人の子供よりも米国の子供が多い、しかし割合聞き わけが良く、いやがって騒ぐような子供は居ない。子供対親の関係はどこ の国でも同じようである。

5)20:30からMs. Nell Kennedyのメッセージがあった。Kennedy 姉は東京在住のクリスチャン写真家でジャーナリストで、雑誌「Christianity Today」の記者であり、又他に幾つかのキリスト教書の著者でもある。今 晩は姉が最近旅行して来た東南アジア及び韓国に於ける教会の様子や色々 な体験談をして下さった。特にインドネシヤと韓国に於ては教勢が急激に 進展し、それにともなって数多くの不思議な事や奇蹟が起っているとの事 であった。その一つに或る伝道者が雪の山中で日が暮れ野宿を余儀なくさ れた時、寒さの中で突然目がさめてみると暖かいものが自分の隣にある ので、よく見るとそれは虎であった。そして夜が明けると共にその虎は何 もしないで出て行ったとの事で、このような話が次から次へと語られるの で、始めは半信半疑に思えたが、姉があまりに真面目に語られるので、そ の不思議さにこの世の思いを忘れた。

6)第2日目は起床、朝食の後09:30から会堂で聖日礼拝を行った。森田 兄司会、森田姉奏楽で始められ、両国の祈祷の後、クリスマスメッセージ は今井兄が担当、米人のため山口兄が通訳をして下さった。マタイ福音書 2章1〜15節をとおし、異邦人の博士達の真理に対する熱情、ヘロデ王の 不安、予言の取扱い、予言の成就、未だ成就されない予言の待望、人間の あやまち等、これらを通して神がどのようなご計画を、どのように成就さ れようとしておられるか、神のご計画を人間が変更しようとする時何が起 るか、そして神の愛は何を指し示しているか、等についてのメッセージで、 新たにクリスマスの意義を思うことが出来た。日米合同の礼拝式は祝福の うちに終了した。

7)プレゼント交換に続いてしばらくの間交歓の時を持ち、昼食の後再会 を約して二日間にわたる意義ある集会を終わることが出来た。

出席者
 日本 武田貴美兄夫妻(会長、元陸将)、清水善治兄夫妻(元1海佐)、 森田忠信兄夫妻子供2(3空佐)、日良恂兄夫妻子供2(3空佐)、山口利勝兄夫妻子供2(3空佐)、下桑谷浩兄子供1(中央病院)、安藤正子姉(空1補)、岡村紀子姉(空医実)、今井健次兄夫妻(防大)
米国 Emerson少佐夫妻 子供2、Vollmer大尉夫妻 子供1、Greshel中佐夫妻、Meyerチャプレン夫妻 子供3(17日だけ) Kennedy姉、Hedeen姉、Goodman姉 子供1、Sides中尉(沖縄)  海兵隊) (今井記)


☆ 通 信

・ 藤田勝男兄(飛教団・2空佐)
 入間の自宅には月に一、ニ度しか帰っていませんので、浜松で聖日を 過す時には、浜松の同盟、中沢教会に出ております。仏子では滝原さん とご一緒になれ、紹介して頂きました。本年もこの会が祝されますよう 祈り、またよろしくお導き下さい。

・ 武内哲史兄(海幕技術部・3海佐)
 コルネリオ会誌楽しみに読ませていただいています。仕事の方がやや 忙しいので、閑居せず、従ってすこぶる求道的な生活になっているよう に思います。

・ 日良 恂兄(空幕調査2課・3空佐)
 新年む迎え、今年は出来るだけ日曜の礼拝に出席しようと努力してい ます。新年礼拝時、牧師先生の説教に感銘を受け、心が新たになりまし た。

・ 山口利勝兄(空幕運用課・3空佐)
  空幕へ来てから約l年、日米防衛協力関係を担当しています。長男は  4月から小学校、長女は年長組の幼稚園、皆健康に恵まれています。

・ 滝原 博兄(入間プログラム管理隊・3空佐)
 仏子教会員である藤田2空佐ご一家と交わりをしています。3人を紹 介します。柴田1空曹・沼倉1空曹・細菅空士長。

・ 小森邦治兄(伊丹・会計監査隊・1陸尉)
 監査官勤務4年目、そろそろ最終ラウンドも近づきましたので、本来 の職種(通信)へ戻りたく準備中です。机に向かう時間の多い勤務ゆえ、 余暇はトリム運動に心掛けております。

・ 山下貴久兄(3空団・器材小隊長・3空尉)
 52・12・17 結婚しました。彼女の父が陸士60期出身の司法書士で、 その同期生の私の上司の紹介です。結婚式は日本キリスト教団豊山教会 で日本キリスト教団宇治教会の高塚勝牧師の司式で、制服礼装での挙式 でした。

・ 藤原道明兄(留萌・26曹連・2陸尉)
 早いもので留萌勤務4年になります。留萌の街にも郷土愛が感ぜられ るようになりました。勤務の合間に連隊内でバンドを結成して、転勤ま でにひとり立ちの出来るバンドにしようと張切っています。今年は今ま でで最も暖かい正月を親子3人で迎えています。皆様との再会および御 来留を楽しみにしています。

・ 勝山昌之兄(北千歳・102大隊・1陸士)
 今やっと新約聖書を読み終り、今度は旧約聖書を中心に読んでおりま す。だんだんと聖書の意味がわかりはじめ、自分の霊魂が目に見えて高 くなったと感じます。又営内班の人々ともうまくいくことができ、これ も主の御力と信じ感謝にたいません。あとは上司との人間関係や、救い がなく苦しんでいる人々に、救いの手をさしのべることができるように していきたいと思っています。「わたしたちは、善を行うことにうみ疲 れてはならない、たゆまないでいると時がくれば刈り取るようになる、 だから機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して は善を行なおうではないか」(ガラテヤ・6−9)献金は部隊内で郵便 振り込みができることがわかりましたので、これからは振り込みにして いきたいと思います。

・ 今村和男兄(防大教授)
 目下ペテル聖書研究に参加しており、この三月で一応卒業の見込です。

・ 中山ゆみ子姉(防医大・看護学生)
 防医大、看護学生U期生として勤めております。クリスマスには母教 会(静岡インマヌエル教会)で礼拝を守りました。

・ 市川武功兄(l空挺団・3陸曹)
 3月をもって除隊し、いのちのことば社に勤務することに内定してお ります。

・ 島崎 朗兄(下総・51空・元l海曹)
 昨年6月退職しました。医療伝道をしたく現在医学部をめざして、働 らきながら受験勉強中です。医学部に入れるかどうかわかりませんが、 とにかくがんばってみようと思います。

・ 藤田喜敬兄(元2陸佐)
 定年退職6年経過しました。月〜金は土浦市の会社の世帯持独身寮で、 土・日は朝霞市の自宅で、仕事は労務担当業務をやっております。余暇 に土浦と浦和のの両道場で合気道の指導をしております。教会は浦和の教 会に毎週行っております。

・ 静岡インマヌエル教会、松村牧師から教会週報を送って頂いておりま す。この教会には前述の勝山昌之兄と中山ゆみ子姉が属しておられ、こ の週報を通してお二人の消息もわかり感謝です。


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 今井教授気付