ニュースレター No.23 1978年8月
※ 啓 示
近来キリスト新聞やクリスチャン新聞の論説に、いわゆる福音派かリベ
ラルか、という問題が取上げられている.これらの論争をもっと客観的な立場から見たらどうなるであろうか。
始めに神は存在するという仮定のもとに出発するとすれば、先づ問題になるのは神の啓示とは何かという事であろう。啓示を普通に分類すると三つになる。第一に一般啓示としては、神の創造になるとされる自然界を通して語られる神の声である。神は万物を作られて、その中に人間も置かれた。神は万物を創造されたとき、すべてを雑然と作られたのではないようで
ある。万物の間には夫々の因果関係と言おうか、或る法則のようなものが
ある、これは神の聖なるご性質をあらわしている。そしてそのは法則は全体としては人間の考えの及ぶような単純なものではない。しかし個々の事柄について考えると、それらの間には割合簡単な関係があり、それは概念的に人間が理解できる。又これらの関係は総合することも出来るし、分析す
ることも出来る。そして全体として美しい調和の中にある。このことは自然科学だけで止まらず、自然の中に生きる生物、人間の間の思考の範囲についても同様な事が言えると思われる。
第二は特別啓示とされている聖書のみ言葉である。神は万物を作られたが、宇宙に存在する万物だけが神のすべてでない事は明らかであろう。即ち万物を造られた神の次元は、被造物である万物よりも更に高いと考えられる。簡単のために一例として、万物を2次元の世界とし、神の世界を更に一段高い3次元とするならば、この3次元上のすべての状態を2次元の平面の状態だけから推しはかる事は出来ない。しかし若し3次元上のある点の2次元平面への投影が与えられゝば、これからその近傍の状態は推測することが出来る。聖書はとれらの3次元世界の各点の状況を示していると考えれば、罪によって目が見えなくなった人間に対して神は、聖書という啓示を通して神の国の真理の要所要所を人間に示されたものと考えることが出来る。聖書は神の真理を示すものだから、人間世界の2次元の知識をもってすべてを理解する事は出来ない。
しかし聖書の要所要所の真理は人間の知識を適切に運用する事によって理解する事は可能であり、両者は本質的に矛盾するものではない、只注意すべきはこの人間の個々の理論を無限に延長しても決して神の真理に合致するものではないということである。聖書に示される啓示を理解しようとして合理的に組立てられた幾つかの神学、即ちスコラ学や理神論、それに自由主義神学や合理主義の神学が結局破たんにいたったのは多くのこの誤りを犯したためと思われる。
次に聖書のみ言葉を研究する上で陥りやすい誤りの一つは無条件に「逆も真なり」とするやり方である。例えば聖書にある警告にある警告をそのまま十
分条件と取るならば、聖書の内容は大変窮屈となり、且つ聖書のみ言葉がお互いに矛盾するという事態が起りかねない。「逆は必ずしも真ではない」という事実は奇しくも今世紀の電子工学上の最大の発見と言われる半導体の性質がよくこれを象徴している.
次に第三の啓示は直接啓示と言われるものである。聖書によれば旧約の
時代には神の使いや神の直接の導きによって行動した事が書かれているが、現在そのようなはっきりした導きはない。しかし聖霊による導きは聖書の約束のとおり現在もたえず我々の上に臨んでいるわけで、それは多く前述の二つの啓示を仲介として働らくが、しかしそれ以外にもそれ
らと関係なく、しかも異常な物理的現象を供なって働らく事がある。例えば断食をして祈っていたら突然光明を得たとか、静寂の中で星のひらめきと共に黙示を受けたとか、聖書の中にも我々の通常知識の理解を超えた聖霊体験の記述はある。しかしそのような物理的異変を供なわなくても、信
仰の先輩の所へ相談に行っている特に突然の暗示を受けたとか、伝道会の説教から(必ずしも直接み言葉からではなく)或いは信徒のあかしが引金となって回心をするとか、これらもそこに働らかれたのが神であると考えれば直接の啓示と言ってもさしつかえないのではなかろうか。
しかしここで注意を要するのは聖霊は「イエスをキリストと告白する霊」((Iコリント12−3)だということである.人間は弱いので油断をすれば直ぐ色々な霊の支配を受ける.超自然的な能力を得たからと言って必ずしも聖霊による神からの導きとはかぎらない。ここで必要な事はその導きを聖書に示された情報に問うことである。自分の受けた情報を常に聖書からの情報に照らし合せて確かめながら進む時に正しい行動を自身をを持って推進させるとことが出来る。これは奇しくも今世紀に於ける精密工学上の大発
見フィードパックの理論とよく似ている。
この三つの啓示について矛盾なく行動するという事は天国に於てなら可能であろうが、この世に於ては仲々困難である。油断をすれば直ぐ落入りやすいのは何と言っても我々に理解しやすい自然界から来るものであろう。
そして聖書によるならばサタンは今やこの世に君臨しているというのだから問題が起こりやすい。次に印刷物の形で我々の与えられている聖書である
が、之も印刷された文字に固執するならば硬直して適用不要になるおそれがある.だからと言って聖書のみ言葉をあまり霊的に解釈すると「宣教」の概念が固定して聖書はどこを読んでも同じことを言っているという事になりかねない。何れにしてもこの三者を通して我々に正しい導びきを与えて下さるのはその場その場に於て働らく聖霊のお働らきという事になる。
福音派、リベラルを通じて聖書研究のあり方については慎重を要することである。
※韓国を訪問して
矢田部 稔 (3師団)
韓国OCUの招請を受け本年4月27日から5月2日までの6日間、韓国
を旅行したので見聞したこと及び所見を申し上げたい。
その前に、私自身のこと、OCUのこと、私が韓国OCUから招請を受けるに至った経緯などを申しておかなければならない。
払は防人学牡時代にキリスト教(プロテスタント)転入f.音して以来、‡三l
締切の信仰や教会とEl締隊の_血Wなどのr柑脳についし2−1イト王批られこれと
考え鈍けてきた名であり、l→粁邦学板f了JoとEli舶卜卜とイjig=jig・に二I糾故に丸首
けるチャプレソ(完ミ教頚只)制舷について小満なヴ!三次t−たこともあった。
l明和34年に陸海空由碑筍(幹・押・ニヒ)、防大学′t三等が八抵触封を学
び緑仰と父わりを沈め各々の性命達成に浄土iすることを=的としてプpテ
スタソトの各教派及びカソリックを包含したコルネリオ余な発J一土させたが、
これ棚桝碍の信仰者グル・−・一プのk娩を紡ぎ∴たた絃推すこる米舶び柴
Focusの刺槻及び文援を受けたものであったけ′払ミ、.もモーカ_lは、らその小−−・長与で
ある。 ヽ
′
コルネリオとほ、新約甥凄=197ページ)「他社行伝」芽ぎ10墳妊灘さ
れているが、ユダヤをrト潤していたローマ叩の将校の名である。
■
ユダヤ人からみれは=りレネリオは怖むべき外la人であり、ユダヤ人成人
のfけ絶である神信仰を分かち合うナ⊂どとは帥′、もよらぬことであり、イエ
スの竺r械節子であったペテpも、故に対する態教を当初は拒否しようとす
るが般後はその謬とり妊気づかされてそれを改め、やがて披らが桁仰の向ふ
とLて結はれる経過が凄かれている。 キリスト者白繊筍逮はこの故郷にあやかろうとしたわけである。
OCUの歴史は純分古く、1851年英国陸軍で生まれたものであるが、
彷二次大戦中の1943年米国で発足して以来急速に各国咋広まり、今日で
●
はアジア、アフリカを含むl妓界各凶のキリスト名陸海準呼人及びその毅欣
を締付さすものとなっており、おおむね4年ごと姥肘界大会を_撃「ている0
−4叫
仙”・称呼、米川グァーーソニ7●州妊おいて22剛勾から絢六軒名の了fく人及び
その碗炊が怨まり第7桝tとt界大会を鵬いたが、払はf三l本コルネリオ会代衣
の・−−・人としてこれ妊参加し大きな感抑を受けたのであった。
−一週的鈍いたこの大金で科料代衆の一人、金斗牌氏と親しくなったわけ
である。同氏は、良老漁教会牧抑、神学持上、劉廷チヤプレソ炭であり聾
呼rub件であったが、その後大佐に昇進、本年托なって退役し掻盤派教会巡
回牧師に叔托された方である。 餉focus陸海空三等総会騒から抽清を受けたのは、同氏を鵜じてであ
つたの ′ナ ● 乳−L司の御朗解と御支倭咋より、私は海外汝航承認をスムース把受ける
ことができたが、ただその際、近時朴大統朝とキリスト教金が対立してい
る如く軸ぜられていることからこの点姥注意するよう拇埠を受けたことで
あった0 特殊な状況下托ある現収「一木の教会人の意識は史托とれ托愉を掛けたよ
うなものであり、斡何の教会は朴大紘敬に締めつけられ頸息一一丸手前のと
●
ころで喘いでいると脱っている人が少なくない。
私の紡論を先虹rillすと、それはとんでもない誤解であり、斡f司の教会は
火把のぴのぴと柄椛しており、特に甲様におけるキリスト教は着発に進展
していると見受けられた。 川発の亡し 4月は日航のストのため予定していた航喪使が利用で
きず、人紳舶埜伏で釜l_hまで行きそこから【q内線でソウルに到為し虐、らに
タクツーで腺抑虹行くというカはをとったので、榊locusが払を聴かす
ため払虹内綿で準備していた次の二つがフイ叱なってアった。
それlま、袋準なレストランで予定きれていた的掴OCU総会良退役海甲
少将loll凝姫氏●川漁の夕食金とそれに引鮨きY舶CÅ会館栃木峨夜の、定例
CO U娘介に山賭して私がスピーチをすること陀なっていたことである。
● −−5−
もっとも、レストランでは予約の収消L′ができない岬悶となっていたの
で、総会民以下6名が7名分の食一軒なとったとのことである。また、MY
CÅでは、3()名くらいのメンバーが柴まり特に夫人遜は遠来の客をも・て
なすため鈍々手作りの御馳定を持参していたとのことであった。
史妊、申lノ訳なかったのは、金斗舶氏と準坤チャプレソの金【い位、陸騨
チャプレソでOct総務の温中佐の3名が築港掴際線(国内線でなく)で
■
2時間半も待っていてくれたことであった。そんなことを知らない払は此
虹夕食と凧料を終えオンドルのあ−る邸尿で窺い、モいた。
次のyea=ま板門店を見学すること托していたが、その出発締把金氏が
旅館まで来てくれたので、前夜の紬末やじ後の許しい予定などをはじめて
承知することができ、扱らの仲裁さに痢のさがる思いがした次得であった.
また、この際、大変多忙なOCU総会良を払が紡関する時間を盤執、やっ
と的爽できたと云うので、退役海軍少将は現在どんな仕鴇をさ叶ているか
驚すると水虚庁良留とのことであった。 破門店から帰り、金氏の自宅で夕食をいただき、良いチャプレソ生前の
アルバムを見せてもらったが、そのfurlに与ゝ空三拝士留学校の卒菜式虹おいて
牧師ガウンを着用した尚Feが説教しているかたわら托朴大統領夫褒が来賓
として着席されている写呉もあった。 次のyea=ま、ソウル駅前、大字ピル18附の水産庁夜宮窒で【Fl総会掻
から払の名繍が刻まれた訪斡紀念娘をいただいた。
築神木邦チャプレソ良潅では、5名の窄琴チャプレソ(プpテスタソト
3名、カソリック1名、仏教1名)及び同行の金氏と温中佐の針7名から、
斡開平隊把おけるチャプレソの働き、OCUの組繊と活動、斡国教会と軍
隊との閑擁等について線明をf和いた。 朝鮮戦争勃発後8簡月を経た1951年2月、斡即巨のチャプレソは性ま
れたのであった。租在のチャプレソの総数は随甲270名、海・宰坤r正確
な飢は州きもらしたが)70′−80名である。
専制I三川(暗に丸汁ナる柑二桝打J分牢けのダ√†んどはチャプレソが抑拝する。チャプ
レノミヾヒ川!、I岬ク)ニ;ミ教村・亨i(礼j●‡:、ミサ、仏教ri技会甥)の執才】∴(2)水椰ミ夜の
・…f椚音淵糊、く:う)かノン′セリソグ、(i)那い5);詣教那キ等を子音ぅ。
ニjミ放行榊ま碑ビアト才‡のみが奉加げるが、完ミ教話持前は月l回川引柑捌庄のも
ので令陪臣1が参加しなけれはならない。で至叩の本年名月の浣ミ教諭満テ叫マ
は、川f,丁仰な鳩じた勝利、(2)蟻性的碑化生テ{与、(3脚幽を守ること、川モlミ命
の噂厳性、(5)・や崩の粥拓、(6)民ご1こ市民の朗想、川使命の完遂、は)民族の誇
り、は)隣人愛、(l糾、さいこと叱崩する忠架、仏l)実のある人生、仏力人桐生描
●
の反省、となっている。 朴太線節は全呼人に対し 卜一人一教」すなわち、各E=まいずれかの信仰
を持つことを呼びかけており、チャプレソ連ほ勿論楷瀞常連やOCUメン
バーもその達成に努めているが、楓Fe杓63飽が信仰を持つよう妊なって
おり、その杓吊()飽がキリスト教である。
そのlie(29【二I、土僻)の午後1噛から、ソウル北方で失敬配備妊つい
ている第25仰川の練兵場では、司令紳第三椰騒を笥モ蛾に将般28名を含
む1527名が妹印洗礼を受けるとと把なっており、坤隊のチャプレソ30
名とソウルの永兜良為派教会朴牧師をはじめ−一般の教会の牧師10名合計
‘10名がち.tうどその頃練兵場に址合lollである。叶・榊柳川で3二FIB百名が
触川洗礼な曳けた例もある等々の,亨再であった。
日本の現状と比敬し何と大きな逝いであろう。
同じ地物のrillにある築ミf(施設囁の沖局に行く。施故乾季准将は空軍CO
U余程である。余技のほか准将1名、大佐・中佐など合計7〜8名が待っ
・(,ホ;り、そこで.氾念品の卿呈を受けた。しはらくのこん款のうち把土崎日.
・のぶ牡最終rの埠蹄が触ると、3〜4台の串に分釆して市内レスト.ランヘ行
ネは総力とナ亡つた。 糾l責付は、r‡木l二I術隊の祁神教帝は何に鹿づいてチ⊂されているか、キリ
ノ =り£1′で代縄卜耗虹対枕することが吋能であるか・と欝糾していた。
∫▼
次の日、30ヒ=ま日峨である。絶呼水椰械杓把ある蹄11川T火教会のナーt・
プレン壌把行き、チャプレソや抑叩OCUのノンパ・・−とこん談Lていると
純叩容認総托乍i壬モ鍋大将が払畑ではいって光られたので挨拶をlie=ノあげ≠二.}
桝lbなく礼打が臼臼始された。円刀id旦礼拝先の糾席二削ま糾∴÷1■けミ。ミ捌享lらや枇
斗槻の斥十及び私服の将校とその大人述がはは壬l久々というユニこ≠二)し 曳i!人.乙こ
も多も、、,)約50′汽の三朴女兵士で桝蚊された∫聖歌隊。温故こ冷を令め3二子1のナ
ャプレソがガウン観で希賭した諦増亡婦人兵の讃犬秋独咄。説教ほ、陣耶
チヤプレン民輿路用大Fayミ把よる旧約†世雀ぎ「山エジプト記.J符17帝8〜
16節をテキストとするl瀾利の秘鞄と湖するものであった。
番犬将は牧師の子息であり、糠口岬の礼拝を随与抒中火教会でされるとの
こと.大将の夫人は別の教会の炭老で、またCO
U夫人会の金良でもあり、 句藤山口噛ほ大変そろって陣甲rill火教会托出腑されるとのことであった。
礼拝が終ると同じ陸甲本邦の構内把ある随甲クラブで絶叫OCU公民土
鵬の愚食会が準僻きれていた。企及の甲医総砿・李少将の他把陸甲【Tel火教
会Oct公民の林准将、大佐5名、・中位2名、金氏と払め合計11名であ
つた0 、
l
腑_L.、柵伺Co Uの活劇の様子を色々と托qカーしてもらったが、OCUは
チヤプレソとよく旭力し各槻の怨念、行碑を来施しているとのことであっ
た0 話が遡如きとなりI∃本コルネリオ会のことを開かれると芳しい思いがし
▲
た0会員数は予僻役を含よず現役のみで約・一一方名を数える韓国Oakと一
名のチャプレソもいない総員杓宙名のE一木コルネリオ会との差は大きい.
夜は、サボイ・ホテルのレストラソで海神OCU会艮主催の夕食会に招
かれた。金良の海兵隊参謀艮林少将、梅坪強兵艦金准将、金氏、温中佐、
私の5名であった。海神の本拠地は釜山托近い鎖海にあるのでソウル地区
把は人員が少ないとのことである。 . 林少将は若い頃から海兵隊の濃くれ武士として名が通り、チヤプレンを
絨り舶はしたこともあったそうであるが、紆赫UALナャプレソの埠きでf諾抑
札−‡与
転入ったとのことである。少掛ま、軋▲ヒ由櫛隊の多くの将官を勧存知であ
つた¢ .
次の日、五月一日は高速バスで塵州に行き新藤の瀬跡を見学し、二日は
金山を出発し椅国の途についた。鹿州ではOCTのメンバーである海軍沖
項地区倉兵隊長の海兵中佐が案内をしてくれた. ’
爵は前後するが、日確日糾ま釣述のOCU関係行事の偶にソウル市内の
キリスト教金を見て廻った.一番古い(1893年創立)勝消長老瀬教会、
礼拝出席1万人といラ最大規模を持っ永楽長尭沢教会、カソリックの代表
である明洞カソリック教会の三箇所である。
子供遵のため●の教会学校が始まる頓に行った勝洞教会でほ叫人の教会役
員から況明を受けたが、長老などの役員教202名。釣週日昭‥11時から
の礼拝出席は1298名。最近買いとった隣渡の土地托近々何億円かを投
じて教恭教育長古ピルを縫紋し、将来は礼拝堂も建て替える新藤であるとの
ことであった0 そ・のはかソウル市杓托ほ大小の教金堂が多く、釜LOU.1も同様である。また叔
Pi山古近くや、鶴遼遠路沿いの農村でも堂々とした教金堂が部落ごとくらい
●
托立っている。総人口3500万のうち仏教1000万、プpチゝタント
′
50;0万、カソリック100万とのととであるが、キリスト教は来賓的に
梯掲礼金を支え導く礼金力となっていると見受けられた。
ソウル碓拇パコダ公歯に行くと、日本め統治姥反対し⊥919年3月1自この公
館を阜f手心妊金掲各地で独鹿塵宮香が統み上げられ、更に激しくなった日本官唐
の卿正にJ朴蛙ず救った独立連動絵巻物紆が壁面風船劾として作られている.
独立鹿骨沓の纏革者33名のうち16名は牧師または教会長煮であった
如く、沖榊独な題勅の当初からキリスト教金が大きな役割を果たしたので
あり、また、そのためキリスト教金の破晋も大きかった.妨打ちにあった
政教もあった. 執権の韓何故食も飼家と赦しく対立しており、かつての統治者と戦った
叫9−
曲W ような戦いを続けているので、それを赦励し、それと虚瑞し、あわよくほ
そのエネルギーを日本にも分譲してもらおうと云う人がいるが、その認絨
は、既托鹿翰として申しあげてあるよう妊、串爽と大きく隋っているよう
である0 日米合同集金 本年度春の日米合同集金は53・6・10は)市ヶ谷会館一階広間托お
いて粥催された. 今南の集金の自的は、コルネリオ金具相互の親睦のほかに、近く本国托
転勤される予定の在日米軍CO甘代表ユマソソ中佐への感謝状贈呈、旧海
軍潜女鹿乗組員で戦後献身されて現在日本盤事神学攻枚長をしておられる
新屋鵡漁師の歓軋および元米国Oct金員で現在福音虚数のため妊鹿京
t 托凍ておられるマドック氏未賓を歓迎するためであった。
そのスケジュールはつぎのとおりであった。
14:50 〜受付け ・
15:00 〜開会、あいさつ 祈 り
ー J ヽlノ 長 姉 金主牧 村 適爪 武 千
′la、 ノlヽ きんび (みよや十字架の)
′
聖 者 マルコ10叫42〜45 説 厳 「キリストのしもべとして」(新屋牧師)
●
さんび (十字架の血にて)
祈 り くュマソン中佐)
17:50〜 エマソン中佐への感謝状贈呈 18:30 〜
証.金 詞 くマドック師、今村兄) 食 19:る0〜 由己崩介および自由時伺
▼
20=0〜 さんぴ く神とも紅いまして) 20:50〜 祈 り 解散
叫10−
出席者 日本 武田漬菜会長夫妻(元陸将)、千発愛爾師(久里浜教会牧師)、
新尾根漁師(日本型沓神学役々長)、今村和男兄(防大)、本代稔兄く妓
本)、堀内焼払兄(防研)、藤村愚僧兄夫妻(救難舶)、目良絢兄(空♯)
■
山口制勝兄(空耳)、滝原縛兄(プログラム管理隊)今井健次兄(防大)
米国 選爪¢=…中佐大変、Gm¢8血e与中佐未牽、求obi乃8th少佐、
8th¢¢1大樹大衆up¢id血¢r姉、耳¢d…姉、肋doe元大佐未褒、
なお、次期在日米国OCU代表はSteel大尉です0
愈W キリストのしもぺとして(集金訊教要旨)
新屋感漁師
皆さ人丁叱お話するのは今日が始めてなので、あかしをさして頂きます0
私は戦時中海軍兵学枚を卒菜してから、潜水他の水宵長をやっておりまし
● た0 ガダルカナル島の沖で即ミ沈んだ時、多くの水兵逮は死にましたが、自
イ 一
分はわずかの傷を受けただけで助けられ、米国軍托つかまり捕虜になりま
した.それでガダルカナルからニューカレドニヤに行き、約三年間補囚の
生活をしました。 ほ りよ
日本軍忙とって敵の捕虜になることは死にまさる恥になる率でした。そ
こで死托たいと思う心がありましたが、それと共妊生きたいという本能も
ありました。その頃、日本にも来た事のあるチャプレソが収容所托やって
来て英文の曳脊や文沓を我々に贈ってくれました。始めはキリスト教を日
本の固体忙興するものと考えていましたので、とてもそれ糾ま親しめなか
った.そして自分の問題、人間の問題に苦しみましたが、その後、段々抵
ヤリストが私托赦しかけるよう托なり、やがて十字架の膚仰、神の召しを
卑えられ、日本托帰ることが出来たならは伝道者托なる以外に遺はないと
思うようになりました。1946年2月 も8でで日本に帰ってから 日本
‘ 仙11二叫
ヽ 璧事神学故に入りました。卒菜してから四年藤田舎の教会で伝道なしまし
たが、その後シカゴのマコミック神学校ケこ入りました。 そこで旧約望沓
の勉強をして1958年椅国してから日本塁審神学校で教育抵当つていま
す0 今山人のクリスチヤソとしてどう生きるかについて常托考えている串を
許したいと思います。 米倒托留学していた時、アナポリスの海軍兵学枚を見学した番がありま
す。 そとで意外な事を知りました。それは兵学故の卒讃式の時、成績最
下位の者を皆で胴上げするというのです。この者を A払eぬarm約 といい
ますが、それ以後との宮尭が好き托なりました。このいかり(Å払¢血or)
から自分はクリスチャソとして三つの尋を教えられます. いかりは海底
に溌く沈●んで船を守ります. 沈む事を精神的に探く考えることが大切で
す。多くの人があまりに皮相的な事姥時な費やしすぎる、そうではなく沈
む審が必鬱だと思います. この時(誇ad−10)の兜句の意味がわかり
ます. 次紅海底に沈むと人々の日からかくれてしまいます。
膚仰生活でほこのかくれる番が大切巧と思います0それはくマタイd ̄
1〜d)によります. またいかりは叫番低い所托位隆しております。人
間妊とって低くな予審、本当の意味の碓遜が一番大切だと思いますQそれ
●
は(マルコ10−42〜ad)の意妹を示しております.
魯 通 膚 0 日本リバイバルクルセード主幹の滝元明牧師からコルネリオ会の働ら
きのため托、励ましのお便りを頂きました。 感謝。
0 横須賀碓、日本基督教団増沖教会の鈴木農巨牧師から 励ましとと挨
・▼
● ′
拶のお便りを溝きました.先生は東京神大ご卒菜後、市川市、舞鶴帝で
伝道の後、四年間米留し、牧金学の博士号を取り、三年前帰国、現在田
山12叫
柵教会で伝道され、横須賀地区でご活蹄です。防衛大学にもお訪ね下さ
れ、伝道の意欲をお持、らです。 感謝。 0
沌頗縛兄(プpグラム管理隊.3空位) l
「先般のOCU換金、皆様の心からのご支凍により、司牟の出航が危ぶま
ぶまれながらも、無事難破もせず目的地托着くことができました.
.私個人として、これ托より喪性が強められ、奉仕教会托おきましても、
大いに参考になることであり感謝しています.昨年までは、ただ家族金
員を引きつれて席を暖ためる膚者であった私托とり、奉仕の尊さを体験
● し、その務めの中妊隻牲が高められるものであることを、奉仕教会での
働き、今回のOBI開催の準備(約2ケ月)および司会役を通して体得
しました。‘感謝.」 コルネリオ事務局 (日本Oct)
横須賀市建水一丁呂 防衛大学枚 応物教皇 今井教捜気付
ー13−