ニュースレター No.17(1976年3月)

※世の光
 「マタイ5-14~16」
 初めて聖書を読む人が、マタイによる福音書の第一章から始めて、第五章に来ると、いわゆる山上の垂訓に入る。そしてその教訓のきびしさにおどろくことになる。「義のために迫害される者は幸」だとか「右のほほを打たれたら左のほほも向けなさい」とか、そして大抵の人は、之を特別な戒めと思い、この世で一般には通用しないのではないかと思う。
 たしかにこれらの教えはきびしく、合理主義的な現代の社会ではそのままでは通用しないように思われる。

 

 我々人間が社会を作って住むためには、それを運営するルールが必要であり、そのための倫理や善悪の基準を作って行かなければならない。その基準は自然を通して学んだり、又はお互いの社会環境の中から人間が作り出していったものであり、或いはその間から自然に発生していったものであろう。そして、それら人間の基準を元にして神の啓示である山上の垂訓に接する時、両者の間に差があることを知っておどろくのである。
 クリスチャンは聖書によれば、「新しく生まれ変わったもの」(ヨハネ3-3)であり、キリストの性質にあづかる者となるのだから、善悪についてはこの世の基準に従うよりは天から啓示された基準に従うわけである。そして「良い行いをするように造られた」(エペソ2-10)ものであり、神の戒めを行うように造り変えられているのである。だからクリスチャンは若しこの世から完全に隔離されて生活しているのであれば、神の啓示やいましめにそのまま従うことが出来る事になろう。
 しかし我々は目的があるのでそのようなこの世から隔離された生き方は許されない。我々は好むと好まないにかかわらず、現状で主の僕としてこの世につかわされているので、この世から逃避することではなく、不調和なこの世の中であかしを立てながら生きて行かなくてはならない。世の人を得るためには(Iユリ9-19)世と妥協するのではなく、この世にその持ち場を保つ必要があり、世の光として明かりを机の下にかくすような事は出来ないし、我々の基準は世の塩として、この世の十字架を担わなくてはならない。又、キリストにあるならばその荷は軽く(マタイ11~30)我々には常にそれをになう力が与えられているというのである。
 我々はクリスチャンであってもこの世にあって色々ななやみを持ち、問題を持ち、重荷を持っている。その上十字架まで負うのではとても身が持たないように思うが、その点は心配ないという事で、我々の重荷は皆キリスト・イエスが代わって負って下さる(マタイ11~28)というお約束である。自分の問題はすべて主が解決して下さるというので我々は空身で自分の十字架だけ負っていればよいので、これは戦闘に当たって第一線部隊は銃だけ持って進めばよいので、あとの必要品はすべて後方部隊が持って来てくれるのと似ている。
 このように理屈は大変簡単であるが、十字架を負う戦いは決してそれ程やさしいものではないであろう。
 そこで問題になるのは罪の問題であろう。聖書によるならば神から離反したサタンは人間の間に巧妙に入り込んで、我々を誠の真理の道から離そうとする。その方法は簡単で、見えている人の目の前に一寸邪魔をおいて見えないようにさえぎれば人は自分の頭の中で思考し判断しようとする。その時サタンは容易にその中に入り込むことが出来るというのである。そこで我々は常に神の啓示を見失わないように注意し、サタンと戦う必要がある。
 我々は新しく生まれ変わったと言ってもやはり、その前の人生を忘れたわけではなく、古い習慣を覚えているし、欲望は兎角自分中心の思いになりやすく、安易なルールにもどりやすい。しかし幸いなことに聖霊による助けはそれに打ち勝つに十分な命と力とを与えて下さるという約束がある。(ヨハネ16-12~33)
 そしてたとえこの世に於いてつまづく事があっても最期に行きつく先は天国であり、今は主からたまわる永遠の命をひっさげてこの世を渡り、この世のちりで足がよごれるならば恐れることはない。兄弟互いに足を洗い合えばよいのだ。(ヨハネ13-14)「およそ存在している権威はすべて神によって立てられたものだからである」とあるように、我々はその属する職場にあって、その勤めをつくし、些細な事に一喜一憂するのではなく聖書の示す啓示に正しく目を向けながらこの世を渡るべきである。之が「世に勝つ」(ヨハネ16-33)ということではなかろうか。
 我々の任務は世を改造して天国にすることではなく、(それは主がなさって下さる)世にあって光をかかげ世の人々が自由意志によって光を見上げ天国を待望するようになるためにあかしすることであろう。

 

 

 

※ "Know your Bible"(第5回)
     ウイリアム・グラハム・ストロジー著
宮崎健男(大佐和キリスト教会牧師)訳
 出エジプト記の分解
[1]屈従(エジプトでのイスラエル)1:~7:36
 (1)民の迫害(1章)
  (イ)国民がふえ広がる。 1-7節
  (ロ)残酷な要求。    8-14節
  (ハ)意図された滅亡。 15-22節
 (2)解放者の準備(2章~4章28節)
  (イ)エジプトの王子 モーセ(2:1-15上)
  (ロ)ミデヤンの羊飼いモーセ(2:1下-4:28)
 (3)贖いの計画とその進行(4章29節-7章36節)
  (イ)最初の動き(試験の段階)4:29-7:13
  (ロ)第2番目の動き(証拠として)7:14-10:29
  (ハ)第3番目の動き(実行に移す)11章-12:36
[2]解放(エジプトからシナイに向かうイスラエル)12:37-18:27
 (1)紅海へ(12:37-14:14)
 (2)紅海を渡って(14:15-15:21)
 (3)紅海から(15:22-19:2)
[3]黙示(シナイに於けるイスラエル)19:3-40章
 (1)神の御旨が示される。(19章-31章)
  (イ)律法(19章-24章)
  (ロ)幕屋(25章-27章)
  (ハ)祭司制(28章-29章)
  (ニ)奉仕(30章-31章)
 (2)神の御旨が侮られる。(32章-34章)
  (イ)大いなる罪(32:1-6)
  (ロ)神の御怒り(32:7-33章)
  (ハ)律法と契約が更新される(34章)
 (3)神の御旨が成就する。(35章-40章)
  (イ)幕屋の建設(35章-39:31)
  (ロ)幕屋の完成(39:32-40:33)
  (ハ)幕屋の奉献(40:34-38)
[4]幕屋についてのノート
 神の啓示に於ける幕屋の重要性は、本書中幕屋の記述に関する章節が多いことからも観察される。祭司職に関する2章(28-29章)を除くと、幕屋に関する記述は11章(25-27章、30章、35-40章)に亘っており、本書全体の4分の1強である。これらの教えは次の7分野に区分される。
(1)幕屋の構造に関する指示。(24:9-27章、29:42-31:11)
(2)幕屋に必要な材料(35:4-19)
(3)幕屋の材料を奉納する(35:20-36:7)
(4)幕屋及びその器具をつくる。(36:8-38:31)
(5)幕屋の材料をモーセのところへ持って来る。(39:32-43)
(6)幕屋の建設(40:1-11)
(7)幕屋の完成と奉納時の栄光(40:17-38)
 レ ビ 記
鍵の言葉 - 交わり  章数27
 レビ記という題は、祭司の氏族であるレビから来ており、この書は歴史書ではなく、儀式の書である。これは「出エジプト」の出来事の前進ではなく、その時期に制定された、儀式を詳述したものである。この書は倫理的な性格を持ち、道徳的・霊的な価値を持つ。
 主な記述は、供え物、とりなし、分離、聖めである。主なる供え物は5つあり、それらは、はん祭、素祭、酬恩祭、罪祭及びけん祭である。これらは全て過越しに含まれており、過越は、これらの中に含まれる。
 又8つの大きい祭、安息日、過越し、ペンテコステ、ラッパの祭、贖い、幕屋、安息の年及びヨベルの年がある。代表的な人物はアロンであり、代表的な章は、贖いの年について記している。第16章である。祭司制が一つの務めとして紹介されている職域を観察するのは大切である。この務めは既に贖われた民のためである。キリストは唯信者のための大祭司である。アロンとその後継者達が、過越しの血をくぐって来たイスラエルの民のためにのみ、奉仕をした様に、キリストは、キリスト教海のためにだけある型の成就となられた。世界のための祭司制は存在しない。出エジプトとレビ記との関連性に注目しよう。前者に於いては、民は神に近寄せられ、後者に於いて、民は神に近く保護されるのである。出エジプトは、贖いの事実であり、レビ記はその教理である。前者は罪人で始まるが、後者は、聖徒で始まる。即ち、彼等の状態は必ずしも、そうとは言えないが、彼らの身分について言えば、そう言えるのである。出エジプトに於いては、神が我々に近づかれることを知るが、レビ記では我々が神に近づくのを見る。前者では、キリストは救い主であるが、後者では聖めるお方である。出エジプト記に於いては、我々の罪が目立つが、レビ記では、我々の汚れが、目立つ。前者では、神なるお方として啓示されているが、後者では、光なるお方として、啓示されている。前者では、我々は彼との結合へと招かれているが、後者では、交わりに入る様にと、招かれている。出エジプト記は、我々に赦しを提供するが、レビ記は我々をきよめへと招いている。前者で我々はサタンから解放され、後者では神に捧げられるのである。出エジプトでは神はシナイから語られ、レビ記では、神は幕屋から、語られる。(次回へ)
※日米合同集会
(1)今年第2回目の日米OCUの合同修養会が11月22日(土)東京千代田区の山王ホテルで行われた。始めの予定は米軍多摩レトリートハウスで、一泊二日ということであったが場所の都合で急に変更となり、山王ホテルで一日だけという事になった。しかし参加者は予定のとおり遠く関西からもおいでになった方もあり狭い会場に、日本側米国側合わせて30数名で押すな押すなの盛会となった。今回は元海軍中将横山一郎兄を特別講師にお招きしてすばらしい信仰の証詞をして頂き、又米国側ではWiese博士がメッセージを取り次いで下さった。恒例のグループ聖研も祝福のうちに終わり、続いて晩さん会を通して良い交わりの時を持つことが出来た。
 当日の参加者は次のとおり。
(日本側) 藤原正明兄夫妻、矢田部稔兄夫妻、長男、長女、海野幹郎兄、小森邦治兄夫妻、滝原博兄夫妻、志賀正吾兄夫妻、下桑谷浩兄、市川武功兄、森田忠信兄、鈴野芳敏兄、横山一郎兄、今井健次兄夫妻
(米国側)McDonald兄夫妻、Campbell兄夫妻、他
(2)米OCFのMaConald中佐は来る4月に横田基地の勤務を終わり帰国されることになったので、今までの日米OCUの世話役としてのご尽力に対しコルネリオ会(日本OCU)から感謝状を贈ることになり、去る2月21日(土)東京東村山市の今井兄宅で贈呈式を行った。当日16:00より、米軍McDonald中佐ご夫妻、Campbell中佐ご夫妻、日本側から、武田貴美会長、矢田部兄夫妻、森田兄夫妻、滝原兄、および今井兄他6名が参加、讃美、祈りの後、感謝状並びに記念品を贈呈、武田会長及びMcDonald中佐の挨拶があり、終わって会食の後19:00解散した。感謝状の内容はつぎのとおりである。
 感 謝 状
米国空軍中佐 F.D.マクドナルド 殿
  同令夫人 B.J.マクドナルド 殿

 

 貴殿及び令夫人は、日本側在任の間、在日米軍キリスト者将校会の代表として、自衛隊キリスト者コルネリオ会との、神にある交わりの為に、献身的に尽力して下さいました。
 私達は、貴殿の離日に当たり、感謝状を贈り感謝の意を表し、永く記念とします。
 1976年2月21日
 自衛隊キリスト者コルネリオ会
 会長 元陸将 武田貴美
(以下英訳・・・・・省略)
(今井記)

 

 

※集会に参加して
 小森邦治(1陸尉 中方会監隊)
 OCUの集会にはユーバンク夫妻来日以来遠のいておりましたので集会案内を頂いた時から参加できる日を楽しみにしていました。
 日頃から教会でコルネリオ会のことなどを宣伝しております立場からも諸行事の予定をやりくりしまして参加の実現を計りました。
 はじめは同行を渋っておりました家内もめったにない夫婦だけの旅行との殺し文句にしびれたのか賛成してくれました。
 平素出張の多い監査官の女房を口説く際には、泊まりがけの旅行が決め手のようであります。子供達の援護射撃も効果がありまして参加は決定的となりましたが、子供にとりましても両親の居ない週末に何かの目的があっての協力だったかもしれません。
 いずれにせよ平凡な生活にすこしばかりの刺激を求めたやや怪しからぬ心情も作用していたようであります。
 ま、平たく申すならば遠足に出掛ける子供のようにいそいそと、いや集会時刻に遅れないように超特急で馳せつけました。
 山王ホテルに着いてやや勝手の異なった雰囲気にとまどっていたところを森田兄からタイミングよく名乗って下さり会場へ誘導していただきました。
 会場には旧知の海野兄や矢田部兄ご一家も到着しておられて家内も安心した様子でした。
 日程の変更で短縮された集会は当然内容は圧縮された時間に運営されることとなり自己紹介に引きつづいて証詞、グループ聖書研究などが適宜コーヒーブレークを間にして進められました。
 グループ聖書研究は森田兄に助けられて不得手の意志表示を解決していただき次第に討議に加わってゆきましたが、後方に陣どっているグループで活発に意見を述べているのはまさしくわが女房どの、どうやら集会の雰囲気になれて日頃の蓄積していた意見が円滑に飛び出している様子で、これを通訳してくれる方は大変だぞなどと思いつつ私自身も熱中して話題に溶けこんでゆきました。
 あらかじめ「指導力」というテーマも判っていたので下調べはしておりましたが、日米男女それぞれの異なった立場、発想から思いがけない意見や意外に共通した考え方などが発表されました参考とするべきことが多くありました。このひとときを過ごすだけでもはるばる集会に加わった成果があったと感謝したことであります。
 夕食後の横山兄の証詞はまことに素晴らしく大いに力づけられました。この要約だけでもかなりの頁数を費やすことでしょう。残念なことに録音機を持参していなかったので、メモに追われ貴重な証詞をやや聞き洩らしてはいないかと自省しています。
 当夜は矢田部兄のご厚意により同兄宅で一泊させて頂きました。ここで見事に整理された同兄の信仰歴ともいうべき教会報など各種資料を拝見し、またコルネリオレター第16号にも紹介されました自衛官と信仰について、お話を承り、また私共の母教会ことばこ尽きぬ話題に花を咲かせ恵まれた時を過ごすことができました。
 使徒行法10章の冒頭に、コルネリオ・・・百卒長で信仰深く、家族一同と共に神を敬い・・・と記述されておりますが、まことに矢田部兄宅は聖句どおりの生活を守っておられ、翌朝は家族の皆様と共に聖書研究の後いとまを告げて帰途につきました。
 職場においても、町内会のおつきあいにおいてもキリスト教会で結婚式はしたのだとか、子供は教会の幼稚園に出しているとか、また、学生時代には教会へ行ったことはあるとおっしゃる方々は意外に多いのです。如何でしょうか、あなたご自身は救いにあずかっておられても福音を独り占めになさってはおられませんか。コルネリオ会の帰途、もっともっと福音を私共も宣べ伝えるべき義務があることを夫婦で語りつつ帰宅いたしました。

 

 

※ ユニオンキリスト教会牧師、中村新一先生から献金を頂きました。