ニュースレターNo.81

News Letter #81(H9.2)1997年
悔い改めの祝福(宮崎 健男 防大8期 牧師)
 神の子イエス・キリストは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ5:17)と宣言して公の生涯に入られました。この悔い改めという言葉は聖書の中にしばしば出てきます。御存知のように、新約聖書はギリシャ語で記されていますが、「悔い改め」はギリシャ語でメタノイアと言い、思いの方向を変えるという意味があります。イエス様の語られたたとえ話の中に、お父さんの愛の懐に飛び込んできた放蕩息子の物語がありますが、彼の心に起こった変化こそ、メタノイアすなわち純粋な悔い改めと申せましょう。
 人間は神の似姿に創造されたものですが、墜罪直後より自己中心的、自己義の存在となってしまいました。すなわち己を義として、真の神様を仰ぐことをしなくなり、同時に自分自身の主にある立場(アイデンティティ)を見失ってしまったのです。今日においても私達の身の回りの悩みの大部分は、これが原因ではないでしょうか。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない
からである。」(ヨハネ15:5)
 私にとっては、自分の体の不可思議さを実感したことから、このメタノイアへの道が始まりました。それは私が、防大の三年の初夏の頃でした。二年間の職場の生活を体験した後に入校した私は、現役で入ってきた学生からはかなり浮いた存在だと感じていました。しかし、入校訓練や水泳訓練を終えて初めての夏休みに入る頃には、精神的にも、所作動作においても、防大生らしく、見違えるほど若返っていました。鈍っている体に体力を付けようと、ボート部に入り、先輩にしぼられながら、足腰の鍛錬のために、防大を下り走水から鴨居に回り、そのまま浦賀駅の近くから防大へと登って行くコースをほとんど毎日走っていました。やがて二学年になり、大隊対抗のカッター競技も終わったある夜、真夜中に突然左足のくるぶし近くに激痛が起こり目が覚めました。その痛みは激しく、朝まで止まず、起床ラッパがなっても起きられず室長に断って休ませてもらいました。早速許可をもらって、大学病院を含めて、いくつかの病院で診てもらったのですが、扁平足とか、行軍病とか言われ、要領を得ませんでした。最初のような痛みはなくなりましたが、左足が熱っぽく、走ると痛いので、体育や訓練はほとんど休むようになり、学校の性格上、周囲の目も気になり、自分自身の将来も不安でした。
 2月にあった妙高高原でのスキー訓練は見学で連れていって頂きましたが、一週間ほどの滞在中、左足の甲が腫れてきて、小指と薬指の骨が交差するあたりの部分が局部的にやや突起してきたので、帰校後、診てもらったところ、骨髄炎という診断が下されました。そして春休みに横須賀の病院で、突起した左足の部分から穴を開け腐った骨を削り取る手術を受けました。その後は、古い骨が腐り切り、新しい骨が生成するまで、手術時の穴にガーゼを詰め、消毒、ガーゼ交換をする治療を続けました。新学期には、左足の足首まで石膏で固めてひとまず退院が許可され、通院に切り替えられました。ある日のこと、教室
から一人で、学生舎に帰る途中左足に急に痛痒さを感じたので、足を止めて、穴に詰めていたガーゼを取ってみました。ガーゼを良く見ると、炭の様な繊維質の小片がついており、穴の中にも少し見えました。「これは、何だ?」と思った途端、ふと思い当たったのです。それは、高校二年の頃の出来事です。ある授業が休みとなり、クラスの友達と大勢で近くの山に登って陣取りゲームをしておりました。先に陣を出た私は、後から陣を出た敵に捕まると捕虜になるので逃げたのですが、逃げ場を失い、思わず竹やぶに飛び込んだとき、一面にあった竹の切り株の一本に足を突き通してしまったのです。
 そのときは、友達に担がれて、ふもとの病院に行き、治療したのですが、その竹の破片が骨にまで刺さっていたとは誰も気づかなかったのです。ところが六年後防大での激しい訓練で、その箇所が炎症を起こし、骨を腐らせ、このような事態にまで至ったのでした。その小片を取り除いて以来、急速に、穴のまわりの肉が付き始め、穴もふさがり始め、新しい骨が再生して組織が強まり、再び体重を支えられるようになり、快方に向かいました。そのとき、体というものは、何と巧みに、不可思議に造られているのだろうと実感した次第です。その後、母の急死に直面し、死の前に愛であるべき家族の絆が如何に無力であ
るかを実感すると共に、ひとりクリスチャンであった弟の死生観の力強さを目の当たりにして、聖書を読む中に、私の身体を造られ、いやされた方こそ、聖書にご自分を紹介している創造者なる神御自身であり、その独り子がナザレ人イエスとして、人間としてこの世にお生まれになった神であることを信じるようになったのです。また、イエスの十字架の死は私を含む全ての人間の罪の身代わりであり、赦しのためであることを確信しました。やがて、この主に仕えて生きたいという願いが起こり、献身を志したのです。
 しかし主は、そのような思いが起こる前、まだ、教会に行き初めて間もない頃、ペテロが三度イエスを否んだ(ルカ22:61-62)後に、再び恵みにより、主のご用に召された御言葉を私の心に啓示され、真に聖書はその主張するとおりに、神に霊感された書物だと納得させられたのでした。(テモテ3:16)そればかりか、ペテロに起こったことが、私の献身の過程においても、
自分の無力さ、無知の故に将来起こることを主が知って教えておられたことを、そのことが起こった後に悟らされました。
 実に私の献身は、火の中から取り出された燃えさしの如く(ゼカリヤ3:2-5)主に拾われたのであり、誇るところは何一つありません。聖書の約束であり、また自分に与えられた噛んで含めるような主からのご教示により、真の悔い改めこそ、主の祝福の原点であります。以下、メタノイアの道に歩む者に対する主の祝福の約束の御言葉の中から、いくつかを記させて頂き、自分の失敗に落胆しないで主の約束を握る者と今後ともさせて頂こうではありませんか。

 

種々の約束:
(1)祈りの応答と、罪ののろいからの解放。-わたしの民が自らへりくだり祈りを捧げ、私の顔を慕い求めその悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し彼らの地をいやそう。今や私は、このところで捧げられる祈りに目を留め耳を傾けよう。」(歴代7:14-15)
(2)罪の赦しと清め-もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます。」(ヨハネ1:9)
(3)慰め-「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
(4)聖霊の賜物が与えられる。-「そこでペテロは彼らに答えられた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪の赦しを頂くために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受け
  るでしょう。」(使徒2:38)

 

 ヨルダン・イスラエル旅行記 檜原 久仁夫  (技本 3陸佐)
 昨年の11月22日から9日間、聖地旅行に行ってきましたので、以下その旅の様子を紹介します。 聖地旅行といっても、いろいろありますが、イスラエルだけでなくヨルダン・ハシミテ王国を加えた聖地旅行です。
 私の参加した聖地旅行は、ナオミ・コミュニケーションの下川先生が企画して下さいました。団長は、私が今行っている教会の渡邊暢雄先生でした。バプテスト教会の参加者が大半の総勢20名の聖地旅行ツアーでした。
 ヨルダン王国とイスラエルは、六日戦争(第3次中東戦争)で、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を巡って攻防戦を行い、ヨルダン川西岸地区はイ
スラエル占領下となったのでした。
 そして、近年、ヨルダンとイスラエルが平和条約を締結したために、我々外国人観光客が両国を訪れることができるようになったのです。
 ロンドン経由Brutish Airwaysでの、丸1日掛かりの飛行機の旅は、非常に体力を消耗します。どんなに、魅力的な映画が上映されても、鉄の意志でそれを無視して、睡眠を取ることが必要であると、痛感しましす。でも、結構面白い映画が上映されるので、ついつい起きて見てしまうのですね。
 さて、聖書の世界にいくのだなと実感できたのは、イスラエルの入国申請書を記入する時でした。入国申請書に、必ず父親の名前を記入しなければなりま
せん。この手続きで、「エッサイの子ダビデ」という聖書の記述が今も生きて
いることを知ったのでした。
 1日目及び2日目は、イスラエル北部のカイザリア、ナザレ、ガリラヤ湖沿岸のカペナウムを巡りました。カイザリアで、暴走族のものとおぼしきスプレーの落書きを見つけて、思わず「どこも同じだなあ」と、ニヤニヤしてしまいました。「日本の暴走族みたいな難しい漢字の書き取りじゃなくて、やはりシンプルなヘブライ文字だなあ。」と私がつぶやくと、妻が「でもきっと、とんでもない変な意味の言葉を書いているのよ。」と言ったので、さらにニヤリとさせられました。
 カペナウムのゲスト・ハウスで、テレビを付けると、ビックリ。日本の特撮戦隊物カーレンジャーが放映されているではないですか。ドラマの部分の登場人物は欧米人、カーレンジャーと敵役との戦闘シーンは多分日本製のフィルムをそのまま、そして音声は英語、そして字幕はヘブライ語なのです。このシュールなカーレンジャーを録画し忘れたことが悔やまれます。今後、海外旅行を行かれる方は、現地のテレビ番組をチェックされると楽しいですよ。
 ヨルダン川を越えて、イスラエルからヨルダンに入国しました。手荷物検査も簡単に終わって、ヨルダン側のツアーバスに乗り換えて、ホッと一安心したのもつかの間、個別に入国管理事務所に呼び戻されて、質問を受けたのでした。私の名前が呼ばれたときは、「やはり・・・」と入国拒否を覚悟しました。入国管理事務所では、「ヨルダンは初めてですか?」と「名前を言って下さい。」
という簡単な質問だったので、事なきを得ました。
 私達のツアーバスには、インツーリストポリスの警察官一人が乗り組んでいました。対テロ警備と観光客の動向監視のためだったのでしょう。
 イスラム教でも聖書が聖典として扱われているため、ヨルダンでも聖書にちなんだ地名、地物が多くあります。ヨルダンという地名自体、ダン族の泉という意味です。ヨルダンの首都アンマンは、アンモン人にちなむ地名です。
 また、聖書にデナリという通貨単位が出てきますが、ヨルダンの通貨はそれにちなんだディナールです。ヨルダン紙幣の表にはフセイン国王の肖像画、裏にはヨルダンの名所、旧跡が刻まれています。
 ヨルダンでは、ネボ山に登りました。ヨルダン渓谷の向側のイスラエルの壮
大な眺めにより、モーセの無念さに思いを馳せたのでした。
 王の道を通って、ペトラに向かいました。その途中で、ほんのりお湿り程度の雨が降りました。多雨の日本から来た私達は、「恵みの雨だな。」程度にしか思わなかったのですが、実はその雨が大変な災害をもたらしたのです。王の道の周辺は、砂漠地帯です。それも、砂よりもむしろ、岩盤に覆われた砂漠地帯です。ですから、降った雨は浸透せず、涸れ川=ワディに集まり、低地に一気に流れ込むのです。その低地の一つがペトラでした。ペトラでは、その鉄砲水のため、道路が陥没し、車が押し流されました。私達のツアーバスもペトラの手間、30km地点で道路寸断のため立ち往生です。裏道を迂回して、無事ペトラに到着したときは、ホッとしました。ペトラに到着して、砂漠の鉄砲水のすさまじさに驚かされたのでした。
 ペトラは、ナバテヤ人による古代遺跡です。もともとは、エドム人が支配していました。エジプトを脱出したモーセ達が無害通行を誓約しますが、エドム人が無害通行権を認めなったため、イスラエル人達は大きく迂回を余儀なくされたのでした。
 紀元前6世紀になって、エドム人に替わって、ナバテヤ人が通商都市を建設しました。ナバテヤ人の手による岩をくり貫いて造られた建造物に圧倒されます。代表的な建造物がエル・カズネ(宝物殿)です。ガイドのアキフさんは、墓地の可能性が高いと説明して下さいました。しかし、中は空っぽなので、今となっては確かめるすべはないようです。
 ペトラのエル・カズネはインディー・ジョーンズの映画撮影に使われた場所です。インディー・ジョーンズの映画では、エル・カズネの奥に秘密の通路があるという設定でしたが、当然のことながら現実には私が押しても引いても、暗闇の中の冷たい壁はビクともしませんでした。