ニュースレター No.20(1977年8月)

※自然と聖書
 「神の永遠の力と神性とは世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められる」(ロマ1-20)とあるように、我々は生まれながら自然の中にあり、その自然を通して神を知ることが出来る。又創世記には人をつくられた時「地を従えよ、海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創1-28)と言われたので、我々人間が地上を支配し、そえを従わせようと努力することは神のみ旨にかなう事と言える。有史以来人々は色々の葛藤の中で新しい文化を築き、科学技術の進歩に伴って、文明の利器をとおして自然の恩恵を受けてきた。
 しかし聖書によれば、この社会は今やサタンをこの世の君として栄えているので、自然は神のものであるにかかわらず、人間はサタンの支配下で甚だしく悪に染まっているということである(ロマ3-10~18)。
 自然そのものは神に属するので聖なるものであるが、それを取扱い、観察するものは人間なので、そこから人間によって導き出された理論は不完全であり、且つ時々誤りを犯す。又万象を支配するものは人間の目で見える自然の他に霊の分野がある。聖書によるならば自然は聖なる神によって創造された言わば第2義的な存在である。しかもその霊の分野は人間の観測によっても、又種々な学問的な方法によっても殆ど解明されてはあらず(自然科学的方法ではまず不可能と思われる)、その霊界の事を実証する方法としては神から与えられた啓示をたよりに、その部分部分を体験して証言するに止まる。そしてこれらの体験の主のものは厳密には再現することは出来ない。
 このようにして聖書のみ言葉には偉大な力があることがわかる。これによって指導される個人個人はこの力を受けてこの世に行動するので、その行動は時にはこの世の理論では理解出来ない場合が生ずる。
 しかし聖書そのものは霊界の青写真であるというよりも、この地上にあってこの環境の中に苦しみ生きている人間のために、又人間が地上の君サタンの束縛から解放されるために必要な事を時に応じて神が我々に啓示して下さった事柄なので、言わば霊界を通して我々に照射された真理の投影のようなものではなかろうか。
 何故神はこのようなものを人間に与えられたのか、その解答は聖書によるならばはっきりしている。神は人を愛され、人間をひとみのように守られた(詩17-8)。とあるように神の愛は人間が不法の縄目から放たれて神の国に入るための備えをさせる為であろう。
 人間はこの霊の投影である聖書を解明しようとして絶えない研究の努力をして来た。特に自由主義の時代を過ぎ、今世紀に入ってからは奔放な方法で聖書にいどみ、み言葉を切り刻みながら、その解明に努力して来た。
 そして多くの仮説や学説を発表し、人智をもって聖書を征服しようと試みたが、そのいきすぎを神がとがめられたのか、結果は逆にその誤りを聖書から指摘されるに止まることとなった。
 自然科学の分野では人間の熱心に対して、主は大いにむくいられて今の文明を与えられた。神学の分野についても主は同じく祝しむくいられると思う。しかし残念な事にここにもサタンの力は大きく人間の上にのしかかって来る。
 人間が熱心の余りに聖書の霊的指摘に対して耳をおおってしまうならば、そこには破綻だけしか残らない。自戒しなくてはならないのは信仰の難船である。聖書が神の言葉の地上への投影であるならば、種々の方向からの投影が地上で重ならないのは当然である。そこに地上の現象そのものである自然に対する研究と神の言葉である聖書に対する研究とは、その方法が異ならなくてはならない。あらゆる手段による取扱いと試みに対して主は求める者には与えられるとあり、しかもそれによってその権威が微動だもしない聖書はすばらしいものと言わなければならない。神のみ名はほむべきかな。
 このように聖書によって神の国の全貌を知ることは容易なことではないが、しかも「みことばうちひらくれば光をはなちて、おろかなる者をさとからしむ」(詩119-130)とあるように常に我々の指針であり、生ける主イエス・キリストの導きそのものであることは幸なことである。我々はこれを地上の固定観念として概括するのではなく、一つ一つのみ言葉を真理の投影として考え、その道をさがしそれに従うべきではなかろうか。

 

※ 転勤に際して(伊丹教会入会時のあかしから)
  矢田部稔(3師団)
 私は、この3月、第3師団司令部の人事・渉外を担当する第一部長として防衛庁陸上幕僚監部から転勤して参り、伊丹の生活を始めました。
 出身地は高知県で、昭和34年から36年の2年半を姫路で勤務しましたが、阪神地区の生活は初めてです。もっとも当教会の牧師・石田先生にはその頃お会いしたことがあります。
 古い記録によりますと、昭和35年2月6日~7日、姫路教会主催の教会学校教師研修会が姫路市手柄山公園「青年の家」で行われ、講師として伊丹教会から石田伝道師(当時)をお招きしたわけです。多くの分校を持ち沢山の生徒に対し熱心に教会教育の業を進めておられるということ以外は講演の細部については記憶していませんが、自信に満ちた青年伝道師のお顔はよく覚えていました(先生はこの研修会に私がいたとはご記憶がないようですが、無理からぬことです)。なお、余談をつけ加えますと、一泊三食つきの研修会参加費は270円となっています。
 私は防大学生時代に日キ教団横須賀小川町教会で初めてキリスト教に触れ、昭和30年に洗礼を受け、以来転勤に伴い各地の教会で会員又は客員としてお世話になって参りました。教会での自己紹介としては、長たらしいことですが、その教会の名を連記しなければならぬような気持ちになります。以下はいずれも日キ教団の教会です。
1. 横須賀小川町教会(宮内俊三牧師、大橋玲子伝道師)(昭和29年秋~32年3月)
2. 高知県安芸教会(野村穂輔牧師)(32年4月~33年3月)
3. 久留米東町教会(田中道宣牧師)(33年4月~33年10月)
4. 御殿場教会(須加崎泰宏牧師)(33年11月~34年5月)
5. 姫路教会(藤原利一牧師、笠井健一伝道師)(34年6月~37年1月)
6. 出雲伝道所(高瀬サダ子牧師)(37年春~39年4月)
7. 再び御殿場教会(岡本明夫牧師)(39年5月~41年8月)
8. 東京都昭島教会(石川献之助牧師)(41年9月~42年5月)
9. 千葉県八千代台教会(堀口勇牧師)(42年6月~43年3月)
10. 旭川六条教会(川谷威郎牧師、篭場公郎伝道師)(43年4月~44年7月)
11. 千葉県船橋教会(白川籐太郎牧師、山田万一副牧師)(44年8月~47年7月)
12. 豊橋中部教会(三和紀夫牧師)(47年8月~49年7月)
13. 再び船橋教会(木下宣世牧師)(49年8月~50年7月)
14. 松戸教会(石川錦一牧師)(50年8月~52年5月)
 「このとき彼らの数は少なくて、数えるに足らず、その所で旅びととなり、この国からかの国へ行き、この国から他の民へ行った。・・・・主は彼らをその悩みから助け出し、住むべき町に行く着くまで、まっすぐな道に導かれた。」(詩篇105・12、107・6)
 さて、ここで教会を転ずる度に感ずることの一つを率直に申させていただきます。それは、日本の教会が閉鎖的な感じが強く、同労者、戦友としての連帯感が低いということです。
 教会によっては、はじめて礼拝に出席しますと、聖書や讃美歌を貸してくださったり、更には必要な箇所を開いてまでくださるところがあります。はじめて教会の門をくぐる者に対して困惑させてはならない、導いてあげなければならないとしておられる新来会者係は大変親切です。けれども、一歩高い立場から導くことに熱心なその方が、同列に立つ他の者と交わりを形成することについては必ずしも関心を示されないことが見られます。礼拝のあとで「私は日キ教団○○教会の者です。」と申しますと、兄弟姉妹としては或は同労者としての関係が判明したわけですから、その意味の挨拶が交わされ、更に他の者への紹介へと発展するかと思うと必ずしもそうではなく、むしろ当惑の顔さえ見させられることがあります。
 在日米軍基地内の教会を何度か訪問したことがありますが、そこでは、私達家族を紹介された米国軍人又はその家族は近づいてきた未紹介者に対し、日本人の名前を直ぐには覚えられず何度か問い直しつつも「ヤタベ中佐、ヤタベ夫人、娘ミチコ、息子タケシ」と私達を賢明に紹介します。
 私は、師団長と同時期に第3師団に着任しましたので、また役目柄もあって、師団長の近畿二府四県の知事や警察本部長や検事正、会社社長、頭取等に対する挨拶まわりに随行しました。名刺を交換し簡単な話をするだけですが、交わりの輪が短時間に形成されてゆくのを見ました。
 また、昨年7月、ワシントンの近くで開かれたキリスト者将校会世界大会に日本代表の一人として出席し、22箇国のキリスト者将校及びその家族合計六百名と共に一週間の生活をしましたが、言語の障害を越え主にある者の交わりが立所に形成される様子を見ました。
 日本文化はタコツボ文化とも言われます。小さなタコツボの中では、親密な共同体が形成され、互に解合い、傷口をなめ合う程にいたわり合い励まし合いますが、他のタコツボとは上手な交流ができないというのです。
 主にある交わりとは、タコツボのようなこの世の枠を越えたものでしょうが、ともすれば教会が、長年親しくしてきた者が親しく交わる場所に転じて了う危険性があります。このタコツボに白紙状態の者が入会申し込みをすれば歓迎されますが、対等の立場の者が入会しようとすれば当惑して了うわけです。
 更につけ加えますと、タコツボ内の親密度にも一面的なところがあります。数年間同一教会に属する成年男子が互いに相手の職業勤務先を知らない例がめずらしくありません。信仰者の交わりは、この世の社会的地位、職業、政治的立場等を越えた兄弟姉妹の交わりであると言われるとその通りですが、この世に派遣され戦いの中にいることを忘れるための休憩所とするならば、避難専用という一面的な目的のためのタコツボになって了います。
 日本の教会の現状は、この世の交わりに勝ち、外国軍人の交わりに勝だけの、交わりのスピードと伝播力を持っているとは言えないと思います。このようなことを、日本の教会の傾向として私自身のことも含め転会の度に感じますが、或は皮相な見方かもしれません。しかし、日本の教会は真に強くならねばならぬと思います。あえて非礼をも顧みず申し上げたのはこのためです。
 「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わあしたちの愛する同労者ビレモン、姉妹アピヤ、わたしの戦友アルキボ、ならびに、あなたの家にある教会へ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵と平安とがあなたがたにあるように」(ピレモン1~3)

 

※軍人伝道研究
  (一軍人基督者の従軍記より)
    峯崎康忠(西南女子短大)
 O.C.Uのいわば源流に当たる軍人伝道義会の太田十三男、田中謙治、そして佐世保軍人ホーム舎母松村里子や同労者津村秀穂など(何れも故人)と親交を結んでいた的野友規氏が昭和5年、海兵団満期除隊以来、田中謙治の創めた福岡聖書研究会に連なり、今日その中心メンバーの一人となって活躍中であることは前回述べた通りである。その的野氏が昭和48年、「死の谷のかげを歩むとも」と題するソロモン従軍記(この種の従軍記として高く評価されるもの)を出征中の日記のわずかな断片をたよりに著したことも前回触れたところである。しかし、この従軍記は現在絶版になっているので、その中から一軍人基督者が軍活動中、何を考え、どのように行動したか、極く一端を紹介し、御参考に供したいと思う。
 的野氏は昭和16年10月に応召、翌17年9月、照空隊電気班長としてブーゲンビル島のブイン飛行場警備の任に当たるが、翌18年7月、陣地に敵の直撃弾を受けたときのことを次のように記している。
 直 撃 弾
 爆音にパット跳ね起き発電機を起動し、素早く待避壕へすべり込んだ途端、ダダダダダッ壕はゆれる。ザラザラザラッと、砂はくずれ落ちる。ダーン、至近弾だと思った途端、壕の入り口がパッと明るくなった。「発電機火災」と一人が叫ぶ。飛び出してみれば、直撃を受けて発電機炎上。
 各部隊より消火隊きたるも、燃料に火がついて施す術もなし。メラメラと燃え上がる炎を前にして私は愕然として、手足の関節がガックリと弛みたるがごとし。砂を掛け、沼地の水を汲み上げて消火につとめる人たちをよそに、隊員一人一人の名を呼び続け、その生存を確かむ。西村がおらんぞ、西村をさがせ。「西村。西村」「西村。西村」無惨な彼のなきがらを思いつつ、戦友たちと手わけしてさがし回る。「西村ー、西村ー」 探照灯に近い方角より「はーい、ここにおります。」と駆けてくる兵、その体を抱くようにして「よかった、よかった。」と思わず涙ぐむ。みんなもともに喜ぶ。
 彼は発電機を運転し、監視のため壕の外にあり、光芒の具合を確かめ電圧を調整しようと探照灯に近づいていったその瞬間、とっさの場合、あたりの窪みに身を伏せて、危うく命びろいをしたものである。
 夜が明けて驚いたことには陣地の周りの木という木、枝という枝は百花満開の光景、私どもの衣類はすべて爆弾に裂かれちぎられて四方に飛び散り、枝々にとまって一夜のうちに真っ白く花と咲いたものである。故国の桜を思わせるようであった。
 陣地はまさに惨たん、しかし、ただ一人の負傷者も出さなかったのは幸いであった。すべてのものは四散しているものの中から、私はまず聖書を捜した。ようやく捜しあてたが、弾辺によって真っ二つに裂かれ、バラバラになって、一枚一枚拾ってはみたが、どうにもならず、しかし、教友よりの寄せ書きが、飛び散ったノートの中より発見されたのは、まさに、真珠に得し喜びであった。(以下教友7名のよせがきが列記されているが、ここでは紙面の都合上、田中謙治氏のものを挙げておく。)
 田中謙治
 このゆえに主いいたもう。我シオンの山とエルサレムとに為さんとする事ことごとく遂げおわらんとき、我アッスリヤ王のおごれる心の実と、その高ぶり仰ぎたる眼とを罰すべし。(イザヤ10・12)
 「主のたまわく、天は我がくらい、地は我が足台なり。」(使徒行伝7・49)

 

 私が召集を受けた直後、私の後を追うようにして、田中謙治氏がわざわざ佐世保海兵団に面会にこられ、福岡聖書研究会を代表してお励ましの言葉とともにこの寄せ書きを下さったのである。それぞれ教友の祈り心ひしひしと私の心に迫る。
 「天はわがくらい、地は我が足台なり」と、まことにようである。夜南十字星の下に一人静かに祈るとき、自分の祈りは、故国にある教友の祈りに併せて受け入れて頂けるを思えば、幾千里と離れていてもともにエホバのみつばさの中にあるを思い、心楽しく、遠くても近きは祈りの友であることをしみじみ感じた。
 「エホバは汝の足の動かさるるをゆるし給わず」「千人はなんじの左にたおれ、万人はなんじの右にたおる。されどそのわざわいはなんじに近づくことなからん」と、アーメンである。私は幾度ともなく、身をもって、その確信が与えられた。主護りたもうの確信ありてこころ強し。
 「彼らは人の中よりあがなわれて、神のこひつじのために初穂となれり」 私もまた、日本帝国のためあがないとなり主のみ前に連なることができれば本望である。

 

 父母となり兄姉となりてつくされし
  教友(とも)の情けに今日は報いん

 

 それから数ヶ月ののち家族より送ってくれた聖書が私の手許に届いた。後方との連絡通信は断たれていると思っていたのに、家族の誠心が通じたものと、感謝に耐えなかった。

 

 ふる里に妻子安しと便りうけ
  心おきなく今日も戦う

 

 その返信を書き終えて
  この便り受けなば喜び又泣かむ
   父の香を嗅ぎて吾子は読むらん

 

 以上によって的野友規氏と田中謙治、そして福岡聖書研究会の会友諸氏との間に結ばれた固い親交のきずなが出征中、氏の軍活動の上に如何に大きな支えとなっていたかを伺い知ることができる。今日、氏が内村の孫弟子として無教会主義に立つ確固たる信仰生活を営み続ける中で、世にも尊い”あかし”を立てているもう一つの事実がある。
 終戦直後、氏の家庭に起こった一大悲劇、身障者三女光子嬢の問題とどのように取り組んだか。そして、今日そのことを正に神の恵として心底から感謝をもって受けとめている切々たる告白、「永遠の幼女」(絶版)は、世に限りない感動と示唆とを与えずにはおかない名著である。

 

※日米合同修養会

 

※Pape宣教師歓迎会

 

 

※キャンベル大佐送別会

 

 

※通信