ニュースレター No.42 1985年1月
AMCF第3回アジア大会を本会が開催することについて
アジア大会準備委員会委負長 矢田部 稔(3特群長,1等陸佐)
59年度総会で第3回アジア大会準備委員会が発足し,私が委員長を務めることになった。 1986年にAMCF第3回アジア大会を日本で開催することは,既に57年度総会で決められて いる。(ニュース・レターNo.37.83年68)
AM CF(旧名OCU)は1851年英国で発足したものであり,後年西欧のいくつかの国との 間で交流をもっていたようであるが,第2次大戦中に米国OCUが結成されて以来次第に国際 的な広がりを持つようになった。第1回世界大会が1959年に米国で開催されて以降おおむね 4年ごとに,いずれかの国が主催国となり世界大会を開いてきている。西独(196-),オラ ンダ(196-),韓国(1967),英国(1968),西独(1971),米国(1976),英国(1980)そ れに1984年の韓国である。世界大会の規模・内容は次第に拡大・充奏しヽ主にある全世界の 軍人(自衛隊員)達の大きな励ましとなっている。日本代表は,前回の韓国大会(1967)以降 連携6回出席している.今年の韓国大会の様子は別稿によって御承知されたい.
AMCFの国際組織は会長のほかに5大陸ブロックごとに副会長を設けていたが,1980英国 大会においてブロック大会を開くことか提案され,1981シンガポールの第1回アジア大会を 皮切りにアフリカその他でブロック大会が開催されるようになった。そのシンガポール大会に おいて,アジア大会の開催は世界大会の2年後を基準とするように決めた。そこで英国での世 界大会は1980年であったので,1982年に日本が開催してはどうかとの話がアジア各国から 出された。アジアにおける日本の一般的地位からみれば”先ず日本から”と言われるのは当然 のことである。しかしなから日本の準備態勢に自信がもてなかったのでとにかく断わり,第2 回アジア大会は台湾が担当することとなった。シンガポールを去るとき,いずれ重大なときが 来るであろうことは察せられた。その後,1983年2月に台湾で立派な第2回アジア大会が行わ れた.第1固及び第2回大会とも日本代表は参加した。
さて,第3回大会を担当すべき本会の状況はどうか.本会の背景となる自術隊における本会 の地位づけはどうか,又わが国キリスト教界の状況はどうか。いずれを見ても明るい材料は少 ない。
大会の運営上考えられる問題点をいくつか拾ってみる。外国代表の宿泊費を含む大会運営経 費の稔出(AMCFの大会では,往復の運賃は個人が負担するが,主催国に到着後の諸経費は主 催国が負担することが慣例となっている。),空港での送迎・大会の諸業務担当・会期の前及び 後に滞在する者に対するホームステイの提供等会員及び家族の奉仕が得られるか(まず,少な くとも1週間くらいの休暇がとれるか),会場は確保できるか(約100名としてその宿泊室, 大会議室,いくつかの小会議室,交通の便),日本側でゲスト・スピーカーを用意できるか (各国とも信仰的であり,国際的であり,かつ軍人との交わりのできるすばらしい牧師が全期 間を通じ連続講演を行った.),婦人リーダーを用意できるか(外国代表の多くは夫人同伴とな るので婦人のためのプログラムも必要),通訳及びできれば同時通弔甲ための設備がえられる か,自衛隊個或は教会例からの側面的支援がえられるか(英国では女王陛下のメッセージが届 けられたし,今回の韓国大会では韓国軍及び韓国諸教会の大きな支援があった。たとえば有力 教会であり日本でよく知られている永楽長老教会は大会のため1億円を献金した。),本会々員 は英語のできる者ばかりではないが外国代表と個人的な交わりができるか,専従職員がいない のに事務処理ができるのか等々を考えてゆくと,現段階で日本が担当するのはとても無理だとの 結論に至る.これに対し本会の状況或は本会をめぐる状況は,このまゝゆけば何年後かに前述 の負担に耐ええるように成長するという見通しは立てがたく,むしろ、この大会を担当するこ と一規模や集施要領を日本ができる程度に縮小して-を契機として問題を解決する力を持つよ うにすべきではないかとの議論が生じ,役員会等では苦悩を続けていたのであった.
コルネリオ会の57年度総会が代々木のオリンピック・青少年センターで開催されたとき,今 井会長中らヨシュア記3章をもってすすめを受けた。それは,イスラエルの人々が40年の放浪 の後,いよいよヨルダン川を渡って約束の地に入る場面であるが、祭司たちが契約の箱を担い で進むと2,000キュビト=1,000m離れて民衆がついてくる。そこにはカナンぴとへテびと等 の反対勢力が妨害している.契約の箱を担ぐ者の足がヨルダンの水に入ると不思議が起った。 コルネリオ会が信仰を担いで水のところまで行ってみようと云われるのである。 準備委員会自体まだ固定していない。別稿で報告されている委員はスターチインク・メンバ ーと云えるもので,逐次増員され強化されることになろう。 祈りつつ.道がひらけることを信じて進みたい。
※ ’84AMCF国擦大会について
1984年度AMCF国際大会が韓国ソウルで行なわれた。我国ではコルネリオ会から8名が参 加した。
その日程は次の通りであった.
月 日 行 事
927(木) 登録。開会礼拝。歓迎晩餐会。
928(金) 朝食祈祷会。聖書講演.各国報告.交歓。夕礼拝(証・音楽等)
929(土) 朝食祈再会。韓国陸軍士官学校 見学及びワークショップ。
930(日) 市内各教会に別れて聖日礼拝及 び交歓会。
101(月) 帝国陸軍記念日行事. 歓送礼拝及び歓送晩餐会.
102(火) 破門店及びトンネル見学。民宿。
103(水) 市内見学。
日本からの参加者は,つぎのとおり
武田貴美兄 武田 健兄 足立順二郎兄 足立矩子姉 下条谷浩兄 長橋晴子姉 今井健次兄 今井倫子姉
外国客の接待について
今回のAMCF国際大会の後,日本に立寄った外国代表と次のような交歓が行われた。
1.シンガポール代表
26名からなる代表団は1083日~5日の間,日本に立寄ったがいそがしくセットされたスケジュールの間で,滝口厳太郎兄が一同をワシントンホテルに訪ね記念品を贈った。
2.カナダ代表
カナダ代表Stout少佐他3名は10月6日~9日の間日本に滞在した。都内のホテルや市内 観光の斡旋をした。尚10月6日は東村山の今井健次兄宅に宿泊,7日の聖日には,日基小平教 会で礼拝を守り,近隣の米人宣教師達とも主にある交歓の時を持っ事が出来た。
3.米国代表
Meeko中佐が横田基地に寄られたので,森田忠信兄,滝原侍兄が歓迎し旧交 をあたためる事ができた。
4.ACCTS(Association for Christian Conferences Teaching and Service)
ACCTS代表のMcDonald夫妻が10月23日日本に立寄られたので,新山王ホテルで懇親会 を行った.出席者は日本側で森田忠信兄,滝口厳太郎兄,同夫人,小山田光成兄,山口利勝兄, 今井健次兄。米国側はMcDonald夫妻,及びMaddox師で,主として1986年日本で開催予 定のアジア大会について意見交換を行った。これについては在日米軍OCF会員は,全面的に応 援する事,及びACCTS本部でも協力する事で励ましを頂いた。又日本開催アジア大会支援の 基金としてMcDonald氏から6,000円の献金があった。
※ 1984年AMCF国際会議に出席して
足 立 順二郎(元海将補)
私たち8人(今井先生ご夫妻と令嬢、武田先生と令息,下条谷さん、われわれ夫妻)は,9 月27日から10月4日までソウルにおける1984年AMCF国際会議に行ってまいりました。以下 に順序不同に想いつくことを書きしるしてみました。
◆ 主にありてひとつ
正直のところ,韓国語の猛烈大声怒号調の祈祷や説教は全くチンプンカンプンでした。一帯 も意味はわかりませんでした。イヤ・フォーンを用いて美辞の同時通訳を開くことはできるの ですが、もともと英語の説教がわかるほど英語力がないうえ,ラウド・スピーカーからガンガ ンきこえてくる韓国語が,それを理解できないためノイズとなってS/N比がきわめてわるく なり,内容は全くわからなかったといったほうがよい状態でした。でも,ヨハネとかイエス・ キリストなどの単語はききとれましたし,ハレルヤとアーメンとは世界共通ですし、これでい いんじゃあないかと思っています.
言葉の壁は,はじめから覚悟していました。言葉が通じなくてもともとです.世界54か国か ら約300人も来ているのです.韓国人をふくめると55か国600人から1,000人ぐらいの参加者 です.これだけの国籍,言静,人種,風俗,習慣などのことなる人々が一堂に会し,ひとつの 神を拝することを,この日で見,この耳で開き,この膚で感じることができただけでも感謝であ りました。帰国してしばらくしてからの我が家の家庭集会のテキストが,「バベルの塔のもの がたり」であり,それから話がペンチコステまで及びましたので,帝国における体験と想いあ わせて,再び感謝した次第です。
◆ ワーク・ショップ
どんなことをやるのかと思っていたら,私どものルーテル教会でやる分団討議(グループ・ ディスカッション)と全くおなじでした。リーダーがいて,書記がいます.リーダーは 司会して皆に発言させます.そして最後にとりまとめをいたします。
我々の出席したグループのテーマは,「どうやって毎日の祈を守るか.」でありました。リ ーダーは若い韓国軍人(多分技術将校)でした。わかりやすい英語で上手に司会してくれました。 「皆さん毎日いつどこでお祈りしますか?」という問に対して,「運転しながら」とか「風 呂の中で」とか,いろいろな発音があり,まことに楽しく有意義でした.ことに,「風呂の中 で」などという答は,私にも経験がありますので,大いに安心と共感とを覚えました。
また,Lin(林と書くのかな?)海軍中佐と友人になることができ,いろいろ突込んだ話, たとえはコンピュータとか,タクティカル・システム・デイザインなどについて話し合うこと ができたのは幸いでした.
◆ 熱烈歓迎
日本語と英語のわかるふたりの韓国人エスコート・オフイサーがはじめからおわりまで我々 日本人グループにつきそって,大そうキメのこまかい世話をやいてくださいました。
また,家庭にまねかれて夕食をともにしたり,ショッピングの案内をしてくださったり,とに かく「熱烈歓迎」の一語につきる歓迎ぶりでした。
下桑谷さんとわれわれ夫妻だけで訪問した先鋒アーミー・チャペルでも,チャプレン季大領 (大佐のこと)以下大そう歓迎して下さいました.このときは,説教も怒号調でなく,しずか な語りかけ調でありましたことと,エスコート・オフイサー金少将(退役)の同時通訳のおかげ もあって,説教を理解することができました。
◆ 勤 勉
韓国人は,私が見た限りでは,とてもよく働きます.パルパル('88年)オリムピックを目ざ してか,日本に追いつき追い越すためか(ともに大いにありうる)わかりませんが,とにかく 勢力的に働きます.(熱烈歓迎は感謝すべきなのですが,起過密スケジュールには閉口してサ ボる/サボらざるを得ないということもありました.)軍事パレードに出て来た兵器・装備品 も.F4Eファントム戦斗機を除き,他は全部国産品とのことでした。ホテルのカウンターで使 っている電卓も韓国製でした。
ビッシリの過密スケジュールやすどい軍事パレードなどから,気の弱い私は,「マケソー」 から「マケタア」という感じを受けた次第です。
◆ 韓国は戦時中
・金浦国際空港についたときから感じました。
・空港内撮影禁止.
・軍事パレードの観覧席に入るまでのものものしい身体検査と周辺のものずごい厳重な替戒.
・すはらしい軍事パレードは残念ながら撮影禁止.
・北から南への侵入トンネル内の撮影禁止。
・板門店における緊張ぶり。 などなどから,ひしひしと「戦時中なんだなあ」と感じました。
私は,日韓両国民とも1テンション民族という点ではよく似ているとは思うのですが.でも やっばりこの「戦時中感覚」という点では大きな差を感じないわけには行きませんでした。
とてもありがたいことに,我国は今,平和を謳歌しています。でも,世界の状況は決して安 巻ではないのです.「日本人は平和ボケしている。」「軍事とはどういうことかについて感覚 がなさすぎる.」ということを再認識させられてまいりました.
2年後の我が国におけるAMCFアジア会議と,4年後のチリにおけるAMCF国際会議において, 主にある世界中の兄弟姉妹とふたたび相まみえる機会を与えられますよう祈って筆をおきます.
※ 韓国での思い出
足 立 矩 子
(足立元海将補夫人)
私共,日本OCUメンバーとその家族8名は,9827日10時20分成田離陸,ソウルに向い 12時17分金浦空港着陸,くもり気温は16度でした.入国手続を済ませ,ロビーに出たのは 午後1時,美しい民俗衣裳の女性と金牧師の出迎えを受け,バスでホテルに向いました.
ソウル市の道巾は広く,88年のオリンピックに向け,近代化が進められて居りました。2時 10分頃到着したシエラトンホテルのあるウォーカーヒルは,朝鮮戦争で戦死したウォーカー将 軍の名前を記念して付けられたと聞きました.ロビーでは昨年の台湾で顔見知りの韓国女軍士 官,米国のトカログロウ牧師,シンガポールのイエオ氏などと再会を喜びました。色々の手続 をすませ,3時30分頃部屋に落着きました.着替えると4時から5時半の開会礼拝のため,地 下レストラン・シアターに入りました。立派な聖歌隊と軍楽隊が壇上に並び,華やかな礼拝で した.6時から8時半までの夕食会では,食後,少女合唱隊が世界の国々の歌を歌い,日本の「うさぎ追いしかの山」の時は驚き,舛席のペルーの方に「ジャパニーズソング」と耳うちしまし た.彼はペルーから唯一人の参加者で,同席の韓国,シンガポール,日本人の英語が通じなく て,一人音楽をたのしんで居る様子でした.
翌日からは6時半から8時まで朝の礼拝と食事,午前全体会議,午後ワーク・ショップとび っしりのスケジュールで,韓国の方の説教や祈祷は,熱烈,怒号調で,こう云う時語学力の無 い私は,テキストの聖書を開き,拝読して居りました。
29日9時から4時半までは,レイデイーズ・プログラムでした.時間の制限があって,ゆっ くり見ることは出来ませんでしたれ急ぎ見た百済仏像は,京都の弥勒菩薩と酷似していて, 両国文化の近似を感じ,なる巷と思われました。豪華な毛皮の免税店では,US250$の半コー トなど,我々にも手のとどく商品が幾つかありましたが、ショッピングが目的でない大会(?) なので,見るだけにしました。
10月1日夜の閉会式パーティは,ヒルトンホテルでの食事もさること乍ら,熱烈な祈り,聖 歌隊の合唱,プロの舞踊家による民族舞踊と豪華絢爛たるものでした.テーブルはシンガポー ルのハウ夫妻,ナイジェリアのKOMO夫妻,退役少佐で国軍教会指導宣教師の李相淑さん,ア メリカのストーン氏(77才)と私達.ドクターハウ氏は明るい方で,常に皆を笑わせ,ストー ン氏が奥さんに先立たれ,一人寂しく参加している事を知ると,帰途は自宅に寄る様にと説得 に懸命で,祖父と孫の会話の様なほゝえましさ.季相淑さんは,テーブルのバラの花をストーン 氏の胸に希って上げたり,すっかりなどやかムード。7ケ月の身重で,こちらも1組だけ参加 のナイジェリアのKOMO夫人は,4ケ国を乗りつぎ48時間かゝって到着したよし,食事の間に 幾度か胸のスカーフで,あふれる涙をふくのが印象的でした。主にあって一つの感を目で見, 心に強く覚えました。
軍事パレードの物々しさ,破門店での緊張ぶりと合せ,立派な国会議事堂内の実景な粗末な トイレット・ペーパーや,お金を持っていても、海外施行など出来ず,毛皮のコートは買う事も, 着ることも出来ないと云う不自由さなど,色々矛盾を感じさせられました.
私共を家庭に招待して,心からもてなして下さった金海軍大将夫妻,ホテルに泊り込み,24 時間私共日本人の世話をして下さった金陸軍少将と,新しく親しい友人が数名出来ましたこと を感謝し,コスモス,サルビア,ムクゲなど日本と同時に咲いていて,時差も無い韓国を去り つつ,世界の平和を心から祈りました。
◆ 原稿を募集します。論説 あかし.近況,詩歌、写実等お寄せ下さい。
※ 韓国OCU事情について(その1)
韓国軍基督教会の様子を中心に
下桑谷 浩
(中病勤務)
主はアブラムに言われた「目をあげてあなたのいる所から北,南,東,西を見わたしなさい。 すべてあなたが見わたす地は,永久にあなたとあなたの子孫に与える…」 (創世記13:14~15)
私の大会参加の目的は
1直接大会の様子を知りJOCUの今後に役立てたいと願ったこと
2今 最も注目されている韓国基督教会をこの日で見たかったこと。にある。
とは申せ一遇間という短期間,スケジュール上限られた行動範囲での韓国滞在であり内容等 に限界があることをご理解ねがいたい。 大会の内容については他に委ねることとして早速にテーマに従ってペンを進めることにする。
現在,韓国OCUメンバーは12万人余と伺った。各部隊ととに教会が建っており,隊員(正会員),女子及び家族(準会員)が所属している。
私は,足立兄亡夫妻と共に第3軍司令部の教会での聖日礼拝に出席し,後に将校クラブで韓 国の鍋料理をご馳走に相なった。12万人のクリスチャンを有すること。各駐とん地ごとに教会(しかも最良の環境にすばらしい建物)が建っていること。わがJOCUにとっ ては誠にうらやましい限りであるか! そればかりか軍には,次のような特別組織がある。
部隊
一般 G/S 特別 S/S 軍宗参謀
基 督 教 天 主 仏 教
(プロテスタン) (カトリック)
牧 師 神 父 法 師
牧師等の階級構成
本部一大佐(高級参謀)
軍 一大佐
軍団一中佐
師団一少佐
連隊一大尉
大隊一中尉
(いずれも専層,フルタイマーの奉仕)
これら組織や教会は故季承晩大統領の肝入りでできたという。即ち韓国軍が北の脅威に真に 対抗し得るためには,優秀な兵器や訓練だけでは駄目で,個人の中に「信仰」が必要で,隊員 は三つのうちいずれかに入ることを義務づけられている。
そして,韓国OCUは「全軍信者化」と1980年代は「信仰の戦力化」を旗印にその働きが進 められている。
次は陸軍士官学校を訪ねたときのことであるれ士官学校では一つの約束ごと(1うそをつ かない 2酒をのまない 3煙草を吸わない 4異性関係をもたない。)があり,これらの一つを破 った場合は「自己申告制」で退校願いを提出するようになっており,4年間で約1%の者が退 校していくと聞いた。
わたしがおどろいたのは,自己申告制でということ約1%の退校者を除きほとんどの学生が4 年の学びを全うするということである。 このことを帰国後,職場で看護幹部(教官)の一人に革したところ彼女は「自衛隊には学生 生活を続けられる人は一人もいませんね」さらに「四年間若い士官学生がこれらのことを守り とおすことができるのは信仰によるからです。そう,それ以外には道はありませんね」とつけ 加えてくれた.全く同感である.詩篇の記者はみ言にしたがってそれを守るよりはかにないと 語っている。
今や韓国の将校の優秀さは世界一であると米軍が折紙をつけたそうであるが,大会をとおし て集にその原因の一端をかいま見た思いであった。
プログラムの最後に韓国防衛の第一線である休戦ラインと北から堀り進められたというトン ネルの見学をした.少からず緊張を覚えた。お互いの銃口が再び火を嘆くことがないようにと 祈りながら自由の瑞を後にした.
特に印象的だった小高い丘にくっきりと建つ白い教会堂と十字架.彼らはきょうもかみをさ んびし祈っていることだろう。
あくまでも親切に心一杯もてなしてくれた韓国の主に在る友よ.私は生涯忘れない.本当に ありがとう。
大会で受けた恵みと教訓とを祖国日本のためにJOCUをとおしてかみの祝福をもたらすこと ができるように生かしていきたい。(以下次号)
◆ コルネリオ会1984年度総会 本年度の総会を次の様に行った。
日時11月10日(土)14:00~18:00
場所 東京パブテスト教会
総会礼拝に引き続き,次の議席について審議した。
1 84年度AMCF国際大会についての報告
2 役員選出
3 1986年度アジア大会の計画について審議の結果,次の様に決定した。
次期役員
会 長 今井健次兄
副会長 矢田部稔兄
幹 事 兼 矢田部稔兄
会 計 下条谷浩兄
渉 外 小山田光成兄
書 記 滝口厳太郎兄 木下孝兄
公 報 兼 今井健次兄
4.1986年アジア大会準備委員会を設立し,委員長に矢田部稔兄を選出した.委員会は若 干の委員を委任して運営されることになった.
コルネリオ会事務局(JOCU)
東京都東村山市富士見町2-12-34
TEL 0423-93-6902
振替 東京3-87577
(発行責任者 今井健次)