ニュースレター No.55
News Letter No.55 1988年10月
日本と中国と
近年の中華人民共和国でのクリスチャンの増加は著しいものがあるようである。中国には三自愛国教会という政府の認可を受けた教会があり、その信徒数は三百万人とも言われている。その他に共産政権の宗教取締りの厳しかった時代には表面に出なかったが、現在政府非公認の地下活動ともいうべき家の教会というのがあり、今やその信徒数は三千万人とも四千万人とも言われている。ある資料(注)によると古代中国にはメソポタミヤの文化が導入されたらしく、唯一神である上帝を信ずる信仰があった。又中国語を構成する漢字は表意的な幾つかの基が組合されて出来ており、その成立には旧約聖書の創世記の物語りが深くかかわっているという事である。しかし紀元前五世紀の頃から新らしく儒教、道教、仏教が入り込んで一神教がくずれて来たがその間に東洋倫理が確立される事になった。以後新らしく福音が入り中国宣教が行なわれたが、共産政権四十年の支配のもとに陰然として宣教が進み、現在多数のクリスチャンが存在する。彼等はクリスチャンであるから全能なる神を信じ、キリストを救い主としている事ではあろうが、その生活習慣は中国式であり、ヘブライ式あるいは西欧式であるとは考えられない。
一方日本の教会については福音宣教百年を過ぎても、その福音が民衆の社会組織の中に入り込むのがむづかしく宣教の実は遅々としているように思われる。そこには何か原因がありそうに思われる。日本の教会では聖書研究が盛んで新旧約聖書を理性的に学ぶ事が多いので、特に旧約聖書の内容からへブライ的な習慣が強調され、従来の東洋倫理で築き上げられて来た日本の土着の考え方とは調和しない部分が多く出て来るように思われる。そしてその生活習慣を変える事が信仰の要件であるように受取られる為無用な抵抗が生ずるのではなかろうか。筆者も戦前東洋倫理華やかだった旧制中学・高校で教育を受け、中年になってから福音に接して以来新旧約聖書を通して聖書倫理に親しんで来た。しかし昔をふり返ってみて神に対する信仰の部分を除いたら聖書の倫理も東洋倫理も人倫として見た時その間にそれ程の差がないように思われる。神は「過ぎ去った時代にはすべての国々の人がそれぞれの道を行くままにしておかれたがそれでもご自分のことをあかししないでおられたわけではない」(使14:16)とあるように東洋人は
聖書によらずによくもここまですぐれた自分達の倫理を作り出したものだという思いがする。そして異邦人伝道に関してエルサレム教会が定めたおきて(使15:29)と較べても東洋倫理は上出来ではなかろうか。
勿論救われた人は古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨て新らしい人を着るのだから(コロサイ3:9)生活習慣が変るのは当然のことではあるが、自分は変っても回りの環境が変ったのではなく、しかも自分は現在のままの場所に遣わされているのであるから目的は自分の回りの環境を変えていくことではない。
若し日本の民族と国土を創造したのが全能者であり創世の主である事が理解されるならば、祖先崇拝は残っても偶像崇拝は自然消滅することであろうし、長い伝統を有する東洋倫理の上に福音から来る愛の律法が行き渡るならば、そこに立派なキリスト教国が出来上るのではなかろうか。
ここで一つの問題は日本人の同調性の強さがある。我国では大和朝廷の時代から氏や姓が尊重され同族意識をもって行動する事に馴れている。その点はへブライ民族と似ているが、それは有利なようで問題の点でもあろう。
今までのキリスト教界のあり方にもその傾向は明らかで、戦争時代に教会は合同して日本キリスト教団が出来、大部分のクリスチャンはそれに同調した。そして地下にもぐっても自分の信条をつらぬこうとした信徒は少なかった。地下にもぐるよりはむしろいさぎよく玉砕するという傾向のように見受けられる。
カトリックの宣教が入った十六世紀の時の状況も同じようで、当時の26聖人の殉教は信仰の華ではあるがその華を支えていたはずの根は殆んど残っていない。玉砕して跡型もない状況となってしまった。これは中国の家の教会がねばり強く今日繁栄しているのとは全く対称的と言わなければならない。現代に於ても日本の戦後のキリスト教界の動きを見ると兎角直情径行的で自分達の方針に従わない者は同類にあらずというような急進的な行動が見られる。これは日本の福音宣教の上に悪い影響を与えるのではないかと思われる。信仰に関しては妥協は不要だが宣教活動に於ては環境を無視するのではなく目的のためには耐えしのぶ精神が必要であろう。いたずらな特攻精神では玉砕があるだけである。同じ農耕民族出身である我々は今こそ中国クリスチャンの忍耐を学ぶべきではなかろうか。
(注) C.H.Kang、E.R.Nelson著"The Discovery of Genesis "Publishing House、St.Louis.
日本人クリスチャンの忘れ物(自衛官合祀訴訟判決で思ったこと)
中野正治(航救難団)
最高裁は、いわゆる自衛官合祀訴訟事件について、原告中谷康子さんの請求を棄却する判決を下した。
この訴訟は、康子さんの夫、中谷孝文さんが、自衛官として在職中、公務死亡した事について、郷里の山口県隊友会(自衛官OBで構成)が孝文さんの霊を護国神社に合祀しようとし、これに自衛隊の山口地方連絡部の職員がいろいろ協力したことを捉えて、この合祀は康子さんの意思に反して行われたものとしておこされた。
争点は大きく分けて次の2点である。
○護国神社に対する合祀申請が、憲法にうたわれた「国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」の趣旨に違反するかどうか。自衛隊が関与していたとする原告側の主張について。
○静かな宗教的環境のもとで信仰生活を送る利益を内容とする「宗教上の人格権」が認められるかどうか。
今回の判決について大方のキリスト教団体とマスコミは反発の姿勢が強かった。私自身は、この判決はよく理解できるし裁判に持ち込めばあんな結着となるのが常識だろうと考えている。教会の方々も個人的にはそれぞれの意見がおありだろうと考えるので、ここで本件について賛否を論ずるつもりはない。それよりも今回の訴訟を通じてキリスト教団体がとった行動が気になるのでそのことについて述べたい。
1. 今回の訴訟は中谷さんのキリスト教信仰についての個人的な考え方に基づいてなされたものとみるべきであり、キリスト教全体に共通する重大な利害関係はない。
中谷さんが個人の信念として訴訟に持ち込まれたことは自由であり私たちが口出しすべき事ではない。
しかし、これをキリスト教に対する迫害ででもあるかの如くキリスト教団体が動くのは、どうかと思う。
マスコミの大半が判決に対して反発したのは、憲法論争について原告側に同調したのであって、キリスト教に対する深い理解があった訳ではない。また、憲法論議となれば、中谷さんの考え方に同調しないクリスチャンがいるのは当然でそういう点でクリスチャンは決して一枚岩ではない。むしろ印象としては、子供のケンカに親が加わった。または親が子供にけしかけてケンカをさせた観があり、キリスト教そのものが世人のひんしゅくを買っているのではなはだ遺憾である。
2. もし最高裁判決で原告が勝っていたら
この問いかけをしてみると、本訴訟がおよそキリスト教とは関係のない争いであることが判明する。もし原告が勝っていたとして中谷さんは心の安らぎを得られるだろうか。何が喜びの対象となるだろうか。自衛隊の行為が政教分離原則に違反していたということが証明されても中谷さんの心に平安があるのだろうか。彼女はクリスチャンとして静かに夫を偲ぶために夫が護国神社に示巳られたことを不快として訴訟を起したが、本裁判の判決の如何にかかわらず夫は依然として護国神社に祀られたままである。それは中谷さんが護国神社に対して合祀のとり下げを争点として訴えてはいないのであるから。本裁判の不思議な点はこのことである。多分中谷さんはクリスチャンとして信仰のレベルで争ってはいない。むしろ別の意図のある組織がイデオロギー論争の恰好の材料として中谷さんを利用したとみるのが妥当であろう。
3. キリスト教徒の独善性
現在大阪湾において関西新空港が建設中であり4年後の開港に向けて工事が進められている。一方当然のことながら、この建設に対して環境破壊等を理由に反対の住民団体も存在している。この中で中核派と呼ばれる組織は関西空港建設反対闘争を第2の成田闘争と考えて、地元の住民団体を取り込み反対運動を指導している。その10団体のうち半分の5団体の代表者はクリスチャンである。余りにも物事の理解が近視眼的見方に陥りテログループと手を結ぶという「この世の子ら」も踏み迷うことのない道に「光の子ら」が迷い込んでいるのである。我々の立場は「論語読みの論語知らず」の弊に陥り易いことをよく認識する必要があると思う。
4. クリスチャンの忘れ物
それは「豊かな社会常識」である。今回の訴訟を見ながら私は、キリスト教に対する迫害が激しかった古今東西の歴史においてクリスチャンがどのように動いたかを想像してみた。彼等は自分達の身分を明らかにせず、ひたすら神との対面、神の臨在を求め続けたであろう。今回のようにキリスト教の名のもとに世人と戦う程権利も自由も豊かではなかっただろうから。
私は、中谷さん個人はとも角として、キリスト教団体は今回のようなことに対してエネルギーを消費するよりも、もっと大切なものがあると考えている。それはもっと神との結びつきを強化することである。そして信仰が高まることはこの世と離れて世捨て人として生きることを意味するものではなく、この世の常識人として確固たる地位を占ることと矛盾しない。今クリスチャンに欠けているものは信仰の実によって備えられた社会常識であると思う。(教会月報より要旨転載)
コルネリオ会集会報告
1. 6月定期集会
日時 63.6.18(土)14:00~16:00
場所 東京新宿 長橋和彦兄宅
実施事項 1. 奨励 石川信隆兄
2. あかしと話し合い
出席者 矢田部稔、石川信隆、中野正治、武内啓史、下桑谷浩、小山田光成、長橋晴子、今井健次の諸兄
2. 7月定期集会
日時 63.7.23(土)14:00~16:00
場所 東京新宿 長橋和彦兄宅
実施事項
1. 奨励 矢田部稔兄 「サムソンの力」について
2. あかし
出席者 矢田部稔、下桑谷浩、長橋晴子、今井健次の諸兄
3. 8月定期集会
日時 63.8.20(土)14:00~16:00
場所 東京新宿 長橋和彦兄宅
実施事項
1. 奨励 中野正浩兄
2. あかしと話合い
出席者 中野正治、下桑谷浩、矢田部稔、長橋晴子、今井健次の諸兄
4. 9月定期集会
日時 63.9.17(土)14:00~16:00
場所 東京新宿 長橋和彦兄宅
実施事項
1. 奨励 下桑谷浩兄 「ヨシュア記1章、ブラジル伝道について」
2. あかし
出席者 矢田部稔、中野正治、下桑谷浩、武内哲史、長橋和彦、長橋晴子、今井健次の諸兄
◎定例集会の話し合いから
毎月行なわれているコルネリオ会定例会では聖書の学び、あかしの他にお互に忌憚のない話し合いがあるので、信仰上、生活上のストレスの解消にも大いに役立っているように思う。会員の自由な参加発言が望まれる。ここにその内容の一部を紹介する。
・ 古今東西クリスチャンは迫害されて来たが、それに対するクリスチャンの動きはどうか。現代のような政治活動や迫害者と戦うという事ではなかったと思う。キリスト教団体はもっと大切なエネルギーを用いる場があるのではないか。
・ 今回の合祀訴訟にしてもヤスクニ問題にしても教会の中では全く反論が出ない。しかし個人的に話すとこそこそと「おなやみでしょう」等と言って来る。非常にオーバーに考えるが内容がない。
・ かなり前に座間にNケネディという女性がいたが、その人の話で生れて以来聖書によってはぐくまれた人生のあかしを二時間位にわたって聞いたことがあったが立派であった。聖書のとらえ方が問題で、「みことばを受けたら直ぐ出て行け」的な主観性だけではいけないのではないか。
・ 教会が独立中隊のような集合であってはいけない。中隊長の顔色をうかがう特務曹長だけが相談相手というのではその戦力は知れている。作戦計画を立てる参謀の入る余地かないようでは教勢をのばすことはむづかしい。「恐れるな小さな群よ、み国を下さるのはあなたの父のみ心である」という聖句はなぐさめであって小さな群が理想という事ではなかろう。
・ 人間は本質的に従属を好む。ナポレオンも言っている、「人間は皆えらい人に従属する、だから私はえらくなっているのだ」と、しかしこれではいけない。
・ 教会が少し大きくなると役員が巾をきかして教会政治をするというのにも問題はある。教会役員も言わばボランティアなので、み言葉に立って余程学んでいないと勝手な方向へ行ってしまう事があり、これでも教勢はとまる。
・ もっと聖書をちゃんととらえるべきだ。牧師の説教でも古い人は道徳説教になりやすく、若い先生は成る程という事は言うがパンチかきかない。クリスチャンはどう生きるべきか、もっと聖書をよく学ぶ必要がある。
一一 永遠の問題であり話はつきない。
トピックス 進化論は?
ダーウィンの進化論はすでに破局を迎え科学的根拠を全く失っているという事で、それに変って「場の理論」および「不確定性原理」によって新世界観を説明している本が、「エントロピーの法則II」(21世紀文明の生存原理)と題して祥伝社から発行されている。著者はジェレミー.リフキンという物理学者で翻訳者は東大名誉教授竹内均氏である。竹内氏は現在NHKの高校生講座の物理学を担当しておられるのでこの内容が日本の高校生に広く講ぜられる事はキリスト者として喜ばしい。
★ コルネリオ会々員下桑谷浩兄は近く宣教師としてブラジル.
サンパウロに赴任される。御祝福を祈る。新住所はつぎのとおり。
アリアンサキリスト教会(超教派)
La.Alianca.C.P-2 Mirandopolis-S.P.16300 BRAZIL
コルネリオ会事務局(JOCU)東京都東村山市富士見町2-12-34
TEL 0423-93-6902
郵便振替 東京 3-87577 (発行責任者 今井健次)